大変現代的なテーマを扱った意欲的なスタートが、なんでこんなところに落ち着いてしまうのだろうな、という肩透かし感がないと言えば嘘になる。面白い。面白いんだけれども、えーこれってこういう話だったの?
家族の離散と集合を描いたドラマはベタに面白い。長瀬智也は相変わらず最高だし、彼のキャラを中心に置いたストーリーはそりゃまあ気持ちいい。語り口がちょくちょく滑っているような気もしないでもないけれども、そこは好き好きだしね。
でもさー、ベタに楽しんでもいられなくない? 偶然だけれども、最近オレが見てきたアメリカのドラマって、中年男性が自分の血や家族と改めて向き合う話ばっかりなのよね。で、これも形的には結構それに似ている。自身の語りから入ることもあって、主人公が自分の欲求に気づくのが早すぎではあり、それがまあ全然違うと言えば全然違うんだけれども……いやしかし、ドラマの構造からいって、父子の関係修復、というのは本来の問題ではないというか、むしろそれが為されないままに終わってしまう話ではあるんだよな。
むしろ「恋人」という他者によって見つかる「自分が透明な存在である」ことのほうが、ドラマとしては重要な概念のはずで、そこはスルッとスルーされるというか、「俺の家」という構造に回収されちゃって、主人公自身のアイデンティティみたいなところには結局行き着かんのよな。これ、子どもが死ぬことによって、家からの自立が阻害されるドラマでもある、と言えるのかもしれん。
いやまあ、「能」や「プロレス」という概念そのものが、そういった「役割」を演じることを強いられるものである、というのはわからんでもないんだが。いやしかし、プロレスになにか特殊なものを見出して新たなアイデンティティにしないと、主人公が家を出た意味がなくない? とも思う。彼の苦闘を受け継いだヒロインまでもが、「自分の意志」みたいな形で家の中に回収されちゃうのは、やっぱちょっとグロテスクな構造なんじゃないかなあ。
いや、「いだてん」とかも、1回ちゃんと見た方がいいかもしれんな……