ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?~経営における「アート」と「サイエンス」~

 

美意識とアートと真善美がゴッチャになっててそれって雑すぎない? というのが全編にわたっての最も大きな疑問で、イライラしながら読み進めたんだけれども、どうしても気になるのがアカウンタビリティの問題だよなー。

自分はアカウンタビリティというのは数値を開陳することではなくて言語化して明示化して他者に伝達することだと思っていて、この筆者の認識とは全く違っている。例えば羽生善治が「直感で出た一番良い」と言った例を挙げて「アカウンタビリティではなく直感が大事」と言っているけれども、だからといって直感によって導かれた手が「説明不可能か」というと全然そういうことはなくてむしろ逆。なぜその手が良いのかを棋士はきちんと説明しようとするし、説明できる手を「感触の良い手」という。逆にコンピューターが指示する直感に反した、しかし勝利には最も近い手を、「感触の悪い手」と感じることはめちゃくちゃ多い。マツダのデザインだって、「説明しなきゃ良さがわからないのはダメ」とは言っているけれども、「良さは説明できない」とは言ってないでしょ。むしろ自分の中で感じた良さを、日本語古来の言語に落とし込んで共有することを積極的にやっているわけで。あるいは絵画を見てそこで気付いたことを積極的に発言しましょうというのも、異なる価値観で読み取った情報を言語を通じて共有しましょうって営みでしょ? それってオレから言わせれば立派にアカウンタビリティを鍛える訓練なんだけれども。

将棋の例に戻るけれども、最初は「薄い」「連結が弱い」と忌避されていた形が、コンピューターの示す新しい価値観によって、徐々に「バランスが良い」「隙がない」という表現によって再評価されている現状があるわけですよ。それは、人間がそれまで獲得していなかった新たな良さの指標を言語化によって再共有しているわけ。直感のトップダウンを論理のボトムアップで補っている状況、とオレは考えている。

でで、この本はそういうアカウンタビリティ・直感を下支えする論理の共有が軽視されすぎてこえーと感じる。っつーかさ、日本の美意識をめちゃくちゃ持ち上げていたけれども、その美意識で同調圧力が生まれて第二次世界大戦が起こりました、って話じゃねーの? ヒトラーだって美意識を持って鍛えてああなったわけでしょ? 別に日曜画家のチャーチルがアカウンタビリティに優れていたかは知らんけどさ、この本の流れでトップの独断を過剰に持ち上げるのって根本的に矛盾してない? ジョブズになってiPhoneもできるかもねNeXTつくるかもしれないけど、みたいな。言語化できない長嶋茂雄をトップに据えるんじゃなくて、言語化できるイチローがトップの方が組織として百倍健全じゃねーのマジで。

いやもちろん天才をトップにそえて自由に行動させるバッファを設けることは大変良いことだと思うけれども、それってただサイコロを振るだけの作業なワケじゃん。組織ってそうではなくてデコボコした人材が集まることでいかに機能させるかを考えなきゃならないワケじゃん。本気で独善的な美意識しか必要ないんだったら、「朝のリレー」を読ませて「これに美を感じない人は失格です」でこの本終わりじゃん。でもそうじゃなくて、なぜここに美を感じるかきちんと言語化して説明している時点で、この本はそもそもスタンスが矛盾しているように感じるんだよなー。