うひゃあめちゃくちゃおもしれええええええええ!!!!
最近Twitterとかで、キズナアイやらなんやらでフェミニズム絡みの言及があったときに、そこで使われている「公」って言葉のイメージが自分の持っているものとあまりにも乖離があって、1回ちゃんと勉強しておかねばなあと思って読んだらドンピシャだった。『人間の条件』とか大学時代に読もうとしてそのまま積んじまったけど、いやー、ようやく読み進められる年齢になったってことなのかしら。遅い。
なにより一番ためになったのは最初の「公共性」が近年日本でどのように捉えられてきたかの歴史で、そもそも官製用語であったというのがなるほど納得である。だからこそ日本では国と公のイメージが大きく重なり合うってのは納得。でもってそれに対抗して、NPOなんかの盛り上がりで市民社会側からカウンターを打つ公共性のイメージができたのが90年代くらいから、というのもめちゃくちゃ納得感がある。確か前にシーシェパード絡みの本を読んだときも、日本が高度経済成長期を迎えていたことが原因で、環境保護とか市民団体側の活動が抑制されていたのだー、みたいな話があった気がしたんだけど、まあそれと並列した現象よね。
なぜ公という概念が「オープンであること」と密接な繋がりがあるのかがカントに遡って解説されているのも面白かった。ヨーロッパの思想ってこういうところで現代の社会の成り立ちに関係しているのかという驚きがある。
「公私」を区切る線が実は流動的というのも大変勉強になった。でもって身体性に引きつけられるその私の領域を公に近づける上で、フェミニズムが果たした役割が大変大きいというのも超納得。LGBTとかの運動も、「公」という概念の線引きを拡張しようという活動とみれば反発が出ること含めて合点がいく。大変スッキリ。
「経済的なもの」と「社会的なもの」が第一次石油危機あたりから離反しはじめた、という話も超面白くて、というかむしろそれ以前はその両者が幸福な関係にあったというのが自分にとっては発見である。なるほど確かに考えてみればその両者は排他ではなくて、うまく社会をデザインすれば全然上手く回ってもおかしくなさそうだもんなあ。
そして何より2000年とかの本が「分断」を公共性の一番の敵として問題視しているのが最高に慧眼って感じ。20年近く経ってもうそれが目に見えているよね。その解決法としてインターネットが機能するかも、と書いているが、むしろインターネットこそがその分断、というかむしろ敵対を強化しているというのは皮肉だよなあ。
ページをめくる度にうおーすげーと唸ってしまった本。最近のインターネットにつらさを感じている人は入門書的に読んでもおもしろいと思いました。