ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

複製された男

 

「ふーん、そっか」というのが正直な所。

というか、こういう映像を用いた『信頼できない語り手』的なアレはなんて言えばいいんですか? でもそれって小説の用語をそのまま流用できないよね。だって小説において地の文が偽りの描写を行うときには、まあその言葉が示すように、そこに「語り手」という存在が暗示されるわけでしょう? でも映像が嘘をつくときその「偽り」を行った主体者は誰になるの? 例えば精神錯乱なんかで現実とは異なる描写が為されるとき、それは精神を錯乱した人間の視点ショットという体で描写されることが多くて、それならまあ確かに理解できる。でもこれって神が嘘をついているわけじゃないですか。

そういう、受け手に対して同意が取れづらい偽りの映像を描写するときに、そこで要請されるものってたぶんあるんだと思うんですよ。デヴィッド・リンチ作品に対して、「全ての描写に整合性がとれてない」なんていう気はもちろんさらさら無いわけで。でも少なくとも、自分はこの映像作品の仕掛ける偽り、ある種の不誠実さに対して、積極的に関わる事を促す何か。

自分はそれが全く持てなかったので、はっきり言って「ふーん、そっか」としか思えず、まあそれでもなんかムズムズするので、すぐにネットの感想を観て「ふーん、そっか」と簡単にムズムズに片をつけてしまうのでした。それが受け手として不誠実だとか未熟だとかといわれれば確かにそうなんだろうけど、少なくとも自分はそれに対して積極的な思考を促されるサムシングは読み取ることができませんでした。