なんか知らんけどアオサギを誰に見立てるかのところを鈴木敏夫じゃなくて高畑勲だと思い込んでて、普通に見ればまあそりゃズレた解釈なんじゃろーし、また高畑勲にはより適切な立ち位置があるのはわかる。オレもそこの3人の関係、熱心に追いかけていたわけではないので、なるほどそりゃそーなんだろうな。
しかしモデルといっても100%下敷きにしてあるというわけでもなかろうし、作者のフィルタを通した途端その行動には作者自身の個性が反映されてしまうのも自然だと思うので、「えーあのポジションのアオサギをそのまま鈴木Pとして見て良いの?」みたいな疑問はある。いやまあそこまでモデルを追求することに興味があるかと言えば全然そういうわけではないんだけど。ってかクライマックスを、高畑勲の跡を継ぐように言われる宮崎駿、みたいな解釈されても、オレには全然ピンとこねーんだよな……むしろ自分の姿を強く投影してたほうがまだしっくりくるというか。
もちろんあの異界が宮崎駿のアニメーションにお馴染みの意匠がたんまり盛り込まれた空間であり、アオサギがそこに少年を導くというのはわかるんだが、しかし同時にその異界は日本家屋に接続された洋式の建築であって、それを廊下で無理矢理繋いだ文明開化以降の日本の異形の姿でもあるわけだ。その母屋との連絡が断たれ、なおかつ洋式の建築が限界を迎えて崩れ落ちる……というところに、第二次世界大戦やら戦後の日本の歴史を重ね合わせるのはまあ普通なことだろうし、そこに少年導くアオサギって、別に誰がどうとか解釈できたところで別にそんなに面白い話でもないかもな……とは思うんだよな。そしてまあ、その建築=異界がもし宮崎アニメの集大成として描かれてるなら、その崩壊を宮崎駿はどのポジションで見てるの? よーわからんな。
そしてまた、ヒロインが他者として存在していないなあというのも思った。骨格自体は女性を巡る物語でありながら、しかし一対一で影響を与え合う対等な人間としてではなく、ストーリーを回す機能でしかないように思えるのは、なんかこう限界を感じてしまうなあと思うんだが、しかしそれまでの女性ヒロインのジブリ映画ってどんな感じだったっけ?
まあ何にせよ、今まで自分、ちゃんとジブリ映画見れてなかったよなーとは思い反省した。もうちょっとちゃんとワケのわかんないものと格闘しないとなー。