ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

すずめの戸締まり

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まず前提として、この物語が強く現実の震災と関わりを持った物語でありそれを利用している以上、物語が現実の災害をどのように語り直すのか……という視点がどうしても必要になると思うんだけれども、全体的にスーパー危ういですよね。っていうか新海誠ってやっぱ田舎が嫌いなんだなあ。震災で復興できない地方に向かうときに「ルージュの伝言」を流すその無神経さに笑っちゃいました。

スクラップ&ビルドを繰り返してきた現代の日本が、人口減少に向かって地方を縮小せざるを得ない状況が、震災という暴力的な出来事によって顕在化してしまった……というのは、震災から10年余り経ってその現地に向かったときに、描くのを避けられないテーマだと思うんです。ましてこの映画は最初から廃墟巡りをやる筋で、実際扉を閉じるときに「その場所に住んでいた人の思い」を想起しながら……みたいなことをやるわけじゃないですか。でも、東北くんだりまで出かけて思い起こすその映像の中に、ジジババが少なすぎるんですよ。あそこたぶん新興住宅地じゃないから結構古い港町で、だったら住民の半分以上がジジババだと思うんですよ。あの回想シーンで描かれるべきは、失われていく地方の老いたコミュニティ、だったはずなんですよ。

でもたぶん、新海誠はそういうのに興味ないんでしょうね。廃墟もいわゆるファッションとしての廃墟、観光地としての廃墟で、限界集落でジジババ暮らすような、きっつい匂いはないわけですよ。東北に来て道路で事故ったら水田に車が突っ込んで泥だらけになるのを咄嗟に絶対想起するんですけど、そういう泥っぽい水の描き方はしないんですよ。そういう作家であることは薄々気付いてたし、別にそれ自体は仕方ない面もあるとは思うんですけど、けどやっぱりこの題材を扱うに当たっては、相性が良くないなあ、とは思いますね。

 

あとまあ当たり前なんですけど、現実に起こった言語として落とし込みづらい未曾有の大災害を語り直すときに、どのように記号化して読み直すか……というのはとても難しいんだなあと思いました。

例えば、現実に生きている人間を「ドキュメンタリー」として語り直そうとしても、その姿はどうしてもある視点からデフォルメされるし、ひとりの人間の一部を安易に単純化する暴力性からは逃れられないじゃないですか。

人間ひとりでもそうなのだから、震災のような大規模なものを扱うときに、災害をどのように記号化するかというのは大変センシティブな問題だし、だからこそ安易に比喩で明示せずに、暗喩やアナロジーで語ることが有効なんだなあ、と思わされました。そういう意味では、日本のアニメ、だけにとどまらずエンターテインメント一般が、現実の出来事を語り直す経験が溜まってないのかなあ、なんてことも考えます。