ふざけんじゃねーぞコラ。なにが百合エンドだオイ。そんなヌルい解釈で表面的な感情慰撫してスッキリしてんじゃねぇぞバーロー。
特に序盤の描写はタコピーがフィクション・一種のイマジナリーフレンドとしても捉えられるような手つきになっていて、それをヒロインが非情な現実から「逃避」するために生み出した幻想と捉えることもまあ不可能ではないし、そういう見方からすればラストの「タコピーと別れて大人になる」というオチは確かに「現実と向き合うこと」という積極的な意味になる。だからこそ最後の女友達となったヒロインズを読者は肯定的に捉えたがる。
「大人になって幻想を捨てて現実の非情さを受け入れて対話すればハッピーになれる」
オッケーあなたは幻想・物語の効能をそういうものとして解釈してるワケですね。オレとは住んでる世界が違うな。っていうかオレはこんなDVを題材にした物語をこのように消費することに心から拒絶感を持つ。
タコピーを現実からの「逃避」と捉えることもまあ確かに理屈ではわかるが、オレはそこにより積極的に「かくあるべし」の「願望」を見る。だってタコピーは何度も「正しい物語」を求めてループするじゃん。このマンガは、「非情な現実」に翻弄される中で、「かくあるべし」という願望を求めてふたりの少女が右往左往する物語で、本来その願望が充足するための本丸は家庭環境だよね。子供がそういった家庭環境の変更に直接アクセスできないのは確かにリアルだけれども、そこにこれ以上なくわかりやすい「願望」の象徴として埋め込まれたのがタコピーじゃん。
序盤、ヒロインの妄想としても解釈出来るように視点を固定して描かれていたタコピーが、途中から突然ヒロインの背後を離れ、独自の視点・時間軸を持った存在として描かれるじゃん。その途端、タコピーはヒロインの妄想であることを離れ、各登場人物の共同幻想でもなく、それを消費する我々の「この物語はこうあって欲しい」という願望を牽引する役割になってるんだよ。
で、その「願望」が「家庭環境」の問題を解決できずに、消え去ってしまい、それを受容することを「大人になること」と肯定的に読み取って、さらにそれを「百合エンド」とかいって楽しんじゃうわけ? はっきり言ってそれグロいよ。