最近Twitterでホットだったんで結構楽しみにしていたのだけれども、ポリコレやジェンダーの問題は公共性や人権に対しての申し立てであるはずなのに、その点について踏み込んだ話がないのは肩透かし感があった。宇崎ちゃんのポスターの問題に対して、フェミニズムからどのような視点で異議申し立てがされているのかの解説がないままこのテーマを語られても、うーんあまり対立を両者の納得のいく形で快勝する議論にはならないのではないのかなあ、と感じた。さすがに「炎上マーケティング」でクギを刺す展開にはなったけれども、数字だけを見てポジティブに評価しようとするその見識はさすがにちょっと危うすぎるように思う。
それにしても千野帽子の議論の図式を引っ張ってくるのはゆうきがあるなーというかなんというか……自分も『人はなぜ物語を求めるのか』は読んで大変感銘を受けたし、あの図式自体は大変有用だとは感じているけれども、しかし現状作者のTwitterを見ていればジェンダー・ポリティカルコレクトネスについては片方に偏った立場をとっているのは明白で……いやまあほんとあの図式はオレも納得がいっているんだけどね。むしろ今の作者とは反対の意見を持っている立場なので、うーんあの図式から全く真逆の結末を見出すのだなーと逆に感心しちゃっていたりもする。やっぱりあの図式を持ち出すならば、やはりフィクション/ノンフィクションがなぜ現実に対しての影響力を持つのか/持たないのか、フェイクニュースなどを絡めてその境目は明確なのか、などに突っ込んで欲しかったなあ。
いやまあしかし、根本的には「ポリティカルコレクトネス」のような概念がフィクションに対して異議を申し立てるのがそもそもどういう意味を持つのか、作り手はそれを全く無視して良いのか、という点について議論を深めて欲しかったんだろうなあ。特にアメリカの人種差別問題を扱った映画を見ると、フィクションでは作品内で語られた善悪の指針を盛んに現実のBLMに接続しようとしているし、ノンフィクションでは過去の映画が現実の人種差別に影響を与えたことが前提のように語られているわけで……
あー、でもこれやっぱり映像ではなくアニメ・マンガという表現が、そもそも対象を記号化・ステレオタイプ化して表現せざるを得ないという根本的な困難が引き起こしてる問題ではあるよなー。マンガでノンフィクションを語ることの難しさ、みたいなのにも関わってくる感じがする。