ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

ボヤージュ・オブ・タイム

 

 

ボヤージュ・オブ・タイム [Blu-ray]

ボヤージュ・オブ・タイム [Blu-ray]

 

『ツリー・オブ・ライフ』のあのパートだけを拡大して映画にした感じ。どうやら元は同じ企画から引っ張ってきたらしい?

まあ例によって美しいが眠い。クソ眠い。眠いというのは悪い意味じゃないのだろうけれどもそれにしても眠い。慌ててコーヒーを取りに行った。これが映画館で視界一杯の映像表現だったらまた違うのかしらねえ。

地球と生命を辿るみたいな構成になっているのだけれど、「母」への語りかけが結構頻繁に行われていて、それってあーリアルな母親でもあり地球という母なる存在でもあるけれども、やっぱり信仰上の母にも被さってくるんだろうなあ、と思う。音楽なんかも知識があったらまた違う感じで見えるんだろうなあ。あまりにも文脈がわからなすぎる。

あと円のモチーフが面白かったなあ。地球の進化を辿る上で色々な形が出てくるけれども、円とか球とかは唯一完璧に幾何学的な形状で、その形そのものの不思議に惹きつけられる感じがある。古代の数学者になった気持ちである。

あと面白いのがこの映画が『ドキュメンタリー』になっているところで、普通に撮りに行った映像がたくさん流れるのだけれども、でもたぶん3DCGの非実在動物がバッチリカメラを意識したアングルでアクションしてたりするのよね。それを見る度に「これは真実の映像なのか?」なんて脳内に疑問がよぎってしまって映画のリアリティについて考えさせられるのだった。もうCGかそうでないかなんて見わけがつかない時代になってるのに、なんでそこにこだわってしまうのかしらねえ……

オー・ブラザー!

 

オー・ブラザー! [Blu-ray]

オー・ブラザー! [Blu-ray]

 

『ノーカントリー』とゴッチャになって見ていたつもりでたぶん見ていなかったと思う。そんなにインパクトがある映画ではないけれども、見ていたらきっと記憶してる気がする。とか言いながら『バーバー』とかもすっかり忘れていたりするのでオレの記憶はアテにならない。KKKの周回辺りの展開は完璧に予想できてたのでもしかしたらどっかで見たのかも。ほんとか?

まあなんにせよまっさらな気持ちで向かい合うことができたこの作品ですが、相変わらず気の抜けたコーエン兄弟で、でもそれが脱走ロードムービーの形式になるとまあこういうのもいいかーって感じになるのは面白い。個人的には『ファーゴ』だの『ノーカントリー』だのの方が好きで、力が抜けたヤツはそんなに好きじゃなかったりするけれども、これは信仰とか運命みたいなのがズガーンと前に出て来るのでそういう展開もアリだよねアリ、みたいな感じになる。わざとらしい偶然の展開もこのフォーマットで神話的な『受難』として語られるとまあアリか、となるのだね。かなり不自然な展開でカエルになってもぎゃはははと爆笑しながら受け入れることができます。

しかしそのなんだ、もうコーエン兄弟で録音パートを見るとだめだ、脳内に「プリーズ・ミスター ケネディ」が流れてきてしまうことがわかった。ってかコーエン兄弟は音楽プロデューサーをどれだけ胡散臭く感じてるんだ。

グリース

 

グリース (字幕版)

グリース (字幕版)

 

わはははははなんだよこのパッケ絵。笑うわ。っていうかネタバレじゃん! だめだよあの大オチを先に出しちゃ! この映画で唯一見られるストーリー展開じゃん! なんてことしてるの!

いやー、トラボルタはすげえスターだったんだなあ。確かにダンスはキレキレで、うーんあの身体動作をみているだけでワリと満足な感じがあるのは認めざるをえない。あんな濃い顔で決してハンサムとは言えないとは思うんだけど、全部ひっくるめて魅力的であるような感じはしてしまった。あとヒロインのオリビア・ニュートン・ジョンは大変可愛らしくてよろしい。でもオレは美容師志望の子も好きよ。

さてさて映画だけれども、いやー、時々ミュージカル映画の表現形式を弄るヤツがあるじゃないですか。普段そういうメタネタはそんな好きじゃない私ですが、この映画のミュージカル演出をみるとやっぱやりたくなっちゃいますね。いきなりのすれ違いダンスの青空二重写しにどうやったら笑わずにいられるのだろうか。美容師志望少女のドリームミュージカルが始まっちゃったときにはもう目が点でございましたよ。あんな集中線エフェクト入れちゃうとか正気ですか? いやー、すげー。

だいぶサントラは売れたという話だけれども、『サタデー・ナイト・フィーバー』に比べると知ってる曲が少ないなあという印象になってしまいますね。ビージーズはつええなあ。

神のみぞ知るセカイ

 

アニメはちょこちょこ流し目で見ていて、あーバグ回とてもいいなーとか思っていたのだが、あれってアニメオリジナルエピソードだったの? びっくりしたよ。

ということでようやくマンガ版を読んで、まずはうーん頭の良いつくりだなーと唸った。ゲーム攻略の能力で現実に向き合うとなると、普通はふたつの異なるリアリティの世界の差違を描くことに注力すると思うんだけど、所詮マンガ絵はマンガ絵といいますか、いくら「こっちがリアルな世界」と注釈をつけたところで主人公はそこそこカッコいい外見だし周囲は美少女キャラばっかりだし、でリアルなはずの世界をリアルに描くことって無理なわけです。そもそも死神とか来てる時点でリアルってナニ? みたいな状況なワケで。

ということでこのマンガは「現実世界をゲームのリアリティで描く」方法を選んでいて、序盤の記憶リセットは明らかにゲームのリスタートの比喩になっているし、いかにもゲーム的な主人公の内面描写のゆるさを利用して、あたかも各ヒロイン攻略がリセットされて行われているかのようなつくりを採用している。大変クレバー。まあこの尺でわかりやすくヒロイン攻略していく構造をとるにはこの方法しかないのだろうけど。

でまあ、1度はそういうゲームっぽいリアリティを採用した現実世界だったのが、あーだこーだの設定で記憶リセット設定を反故にされ、現実の一夫一妻制的なリアリズムに追いつかれるのが最高にエキサイティング。いやまあゲームによって救われたはずの主人公がハーレムを目指したが、結局現実に追いつかれてしまうのは、ある意味ではだいぶ寂しい結末なんだけれども、お話としてみたらやっぱり現実に向き合えよ的メッセージの強力さはワケわかんねーくらい強力で、だからまあエンタメとしてはこういうオチはしょうがねーよなーとは思う。寂しいけど。

しかし残念なのはループ話のどうでも良さで、地獄のあーだこーだとかどうでもいいからさっさと自分の恋愛にケリつけにいかねーかなーって気分になってしまったのが大変に惜しい。一度目のループで省略の難しさについて自己言及されていたけれども、やっぱこういう連載形式で細かな差違がテクニカルな面白さを生むループの話を作るのって、難しいのかしら。大きな過去へのジャンプ自体は、なぜこの現実世界がゲーム的なリアリズムで描かれてきたのかの辻褄合わせになっていて、確かに理にはかなっているけれども、まあだからといって面白いわけではなく……どうしてもひとつ外側の「はいはい輪を完成させて元に戻る建て付けね」ってのが先に出てしまってなあ。めちゃくちゃキャラが強く好感が持てるエルシィが、ストーリーの駆動のコマとして全く効果的な活躍ができなくなっていったのもしんどくてなぁ……金持ちロリとの淫行未遂とか無駄に過剰な6年メンヘラ女とか、あれってお話の中じゃあまり意味がないと思うのだけれども、その意味のなさの方により強くドキドキハラハラを感じてしまうのはちょっとキツい。

あとそれに関わるけど、結局読んでいるコッチ側のヒロインへの好感度って、それぞれ個別の「いかにもお話として作られた」ストーリーでは全然上がったりせずに、むしろ別ヒロイン攻略中のちょっとした閑話みたいなところでギュンとあがるんだなーというのも結構思い知らされた。美少女ゲームの意味ない日常会話って、だからこそ必要なんだなあ、とか思った。

ワイルド・スタイル

 

DJ! ラップ! ブレイクダンス! グラフィティ! これがヒップホップ!

なるほどなーこういうところからこういう文化が生まれてくるのかーという納得感がすごくある。地下鉄がウォール街みたいな世界の中心とハーレムみたいな貧民街を一直線に繋いでいて、地下鉄への落書きが真っ直ぐそのままマンハッタンを貫くみたいなイメージがこれほどわかりやすく提示されるとは思わなかったぜ……そして現代アートという大変胡散臭い状況が、彼らをそのまま垂直方向の金のある方向へと連れて行くのね……有閑マダムも誘惑して来ちゃったりするのね……すげー……なんてわかりやすい映画なんだ……

映画としてはグラフィティはどうしても絵になりづらくて、ブレイクダンスも賑やかしで、DJのわかりやすーいノリと激しいラップが作品の基調になっちゃうよなーと思った。ラストのいかにもオールスターを集めましたーみたいな空気感もワリと圧倒的である。

そしてあのお祭り感はどーしたって『サイタマノラッパー』とか比べてしまうよね。うーん、やはり埼玉という絶妙な距離感が物理的な夢への遠さとして機能していたんだなーあの映画。高崎線に落書きしてもなあ……

アゲインスト・リテラシー ─グラフィティ文化論 Against Literacy: On Graffiti Culture

 

アゲインスト・リテラシー ─グラフィティ文化論 Against Literacy: On Graffiti Culture

アゲインスト・リテラシー ─グラフィティ文化論 Against Literacy: On Graffiti Culture

 

なんか最近バンクシーがあーだこーだニュースになったけど、ちょうど興味があってこの本を読んだ直後だったので、あーなるほどねーそういうことやるよねーという認識になってとても面白かった。現代アートの入門なんかもちょくちょく摘んでいたので、その作品がどの文脈でどのようにとらえられるかっつーのは大変な問題なのだろうし、この本でもバンクシーがそういう文脈にとてもセンシティブなところが解説されていたので、シュレッダー云々の話には納得感しかないよなあ。

あとそのちょっと前に「あのヘイト本、YONDA?」がミョーに持ち上げられたり、逆に「犯罪行為じゃん」と貶されていたりしていたのも、この本を読んでいたから結構周回遅れに感じていたというか……落書きが芸術か犯罪行為かはグラフィティのまあ一番最初の基礎の基礎で、そんなん書いてる方に今更指摘されてもなあって感じだし、一方そんな高尚な落書きかっつーと、すでに「ビジュアル・キッドナッピング」とかクソ高度なやり取りが既にフランスでやられちゃったりしてるわけでしょ? なんか最近の超ゲンナリする萌え絵と公共空間のやり取り含めて、日本はもうちょっとパブリックって概念をしっくり考えるべきなんじゃないかなあという気がすごくする。閑話休題。

そのほかにもホーボーなんてものを聞いて「あー! 『ホーボー・ウィズ・ショットガン』のアレか!」と大変納得したり、バスキアが出てきてあーあのバスキアかーと思ったり、色々知識が引っかかって大変面白かった。ちょっとここら辺掘ってみようかねーという感じである。

若おかみは小学生!

www.waka-okami.jp

うーんやっぱ映画は省略だなー。作品全体がその省略で飛ばされたヒロインの心情へとたどり着くまでを描いているわけで、さすがの構成&脚本だなーと思う。デカい荷物手に無人のマンションに「行ってきます」というシーンだけであーそういう話ねーとわからせられて正直それだけで涙ぐむ。ほんと頭の一連のシーンはめちゃくちゃうめー。
例の若おかみ強制パートもやや引っかかるところはあるものの一応祖母の芝居でフォローはしてあるのでまあアリかなあという感じ。あのキャラにしてはちょっと主体性がなさすぎるかなあとも思うがしかしあそこで主体性を出させるためには母親の遺志みたいなところを強く出すのが普通のやり方で、構成的にフタしておきたいところよねえ。だからこそあの茶碗こぼしみたいなトリッキーなアクションが必要だったのか。
クライマックスのようやく出てきた涙パートの細やかさもさすがだなーという感じで、1回父親が「自分が辛い」を山ちゃんボイスで言わせてからの、正直綺麗事すぎないって感じの説得+子供が引き留めでうやむやのうちに宿に戻るあの感じが逆にとても良い。あのシーン全然ロジカルな説得にはなってないけれども、バックグラウンドにある由来ある宿が、深い父親の傷を癒すために機能するのが暗示される感じ(そういう意味では最初の親子も息子転向のきっかけが直接的に描かれないんだよなー省略されて宿のどこかで変化が起こった体なんだよなーうめーなー)。
ちょいと引っかかるのは最後にグローリーさんが迎えに来るところ。どっちかっつーとばあちゃんとかをメインに置きそうなところだよなーとは思ったのだけれども。まあPTSD知っているのがグローリーさんなので実際そうせざるをえないのか。全体的に鬼まで引っ張り出して結構強引なくらいに死を巡る人物たちの物語になっているので、ひとり女性としての成長モデルになるだけ(もちろんそれも大事な役割ではある)の彼女が浮いている感じは拭えないよなあ。