ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

俺の妹がこんなに可愛いわけがない

あとがきを読むと、この作品の編集に三木一馬というひとがいるのがわかる。
電撃文庫の話題作を読むと結構この人が編集についているので、謝辞に「編集の三木さん」って名前が載っているか見てみると面白い。

自分は割と意識的にそこら辺をチェックしているのだけれども、この作品が出る4年前、この人が担当したライトノベルで、同じようにオタクちゃんがメインヒロインの『乃木坂春香の秘密』って作品があった。
で、その2作品を読み比べると、まあたぶんその編集のアイディアも結構入っているんじゃないかと勝手に推測するのだけれども、『乃木坂春香の秘密』からの改善点がはっきり見られるように思えて面白いのだった。


現在、学園が舞台のライトノベルの一番オーソドックスなフォーマットって、「異世界のヒロイン」が「現実世界の無個性な主人公」と出会ってあーだこーだ、というものなんじゃないかと思う。
主人公が異世界と現実世界の折衝役となって学園になじまない押しかけヒロインをフォローしたりするんだけど、板挟みにあってヒロインに罵詈雑言を浴びせられながらも頑張る! でもつらい! でも頑張る! あれ? だんだん気持ちよくなってきたよ! みたいな流れもちょっとあったりもするが、まあともかくそういう「異文化ゆえに現実世界と折り合いがつかないヒロインのガイド役」を仰せつかり、まあその結果としてヒロインの恋愛感情がごにょごにょ……的なアレである。

で、そうやって考えると、「現実世界と折り合いがついてねーのは俺自身だよ!」という読者自身の姿を、そのまんま「異世界のヒロイン」に当てはめてしまう、「ヒロインがオタク」系のライトノベルがちょこちょこ見られるようになったのも、まあなるほど納得、のりくつではある。
「特殊な趣味が理由で世間一般から迫害されているオタクヒロイン」に「無個性だがしかし良識を持った主人公」が接触する。で、中立的な視点を持った主人公が、無理解な世間に対し、「アニメやラノベだって読んでみれば本当は素晴らしいところがあるんだよ!」という正論をぶちかまし、オタクヒロインは自分を認め、同時にオタクたる読者も正当化されるというしかけである!

……気持ち悪い。
と、『乃木坂春香の秘密』を読んだ自分は正直思った。
だってさあ、「オタク」っていう自身の性癖を正当化するために、ヒロインの周囲を偏見に満ちた存在にしておいて、「偏見は良くない!」って主人公に正論突きつけさせることで、カタルシスを得るんだぜ。しかもそれでヒロインと恋愛関係に陥っちゃったりするんだぜ? それって嫌じゃない? 自己弁護過ぎない? 気持ち悪くない?


とまあ、オタクヒロインのラノベには、そういう感情を抱くのが常だった。


ところがどっこい、基本的な構造が同じはずのこの『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』なんだけれども、『乃木坂春香の秘密』で気になっていた気持ち悪さが、丁寧に、本当に丁寧に、修正されていたなあ、と感心したのだ。そのおかげで、ちゃんと、面白く作品を読むことができた。

なんといっても徹底されていたのは、主人公の「良識」のあり方である。
ヒロインにエロゲーを突きつけられて、主人公はちゃんと「引く」。っつーか、主人公自身は最後までオタクコンテンツを理解できないままである。生理的に受け付けないままである。
だが、それでも、主人公はひとつの趣味として、ヒロインのオタクコンテンツを認める。そのきっかけが「オタクコンテンツに関わることでヒロインが得る人間関係」を理解することであるのが良い。そこにきちんとした説得力があるので、主人公がヒロインの趣味を認めるこの構造が、問題の焦点を正しい方向にずらしている。

また、ヒロインが「主人公の妹」であり、恋愛関係の対象が別に提示されているのも大きな工夫だ。そもそも「相手の特殊な趣味を許容する」だけで成り立つ恋愛関係って、全然説得力がない。「特徴もない主人公がすげえ美少女と結ばれるための都合」って捉えられても仕方ない。

最終的に立ち向かう敵を「学園」ではなく「父親」に設定したことも、たぶんきちんと効果を発揮している。
古典的な構図に主人公を当てはめることで、作品が典型的な成長物語になる。ヒロインとの恋愛だった作品の主眼が、主人公の成長物語に比重を移すことで、この作品は単なるオタクの自己弁護小説ではなくなっている、と自分は感じたのだった。

いや、単純にちゃんと面白かったです。


以下雑感。
・まあそれはそれでいいんだけれども、やっぱり父親が単純化されすぎているのは事実で、写真が出てきたとき「元カメコで人生を台無しにした父親が娘の身を案じて……」みたいな父親側の正当性が示されるのをドキドキ期待してしまったのは自分だけか。そうか。
・異文化のヒロインに現実世界との折り合いをつけさせるとき、主人公が規範となったり衝突したりするのではなく「異文化であることを認める」のは、ちょっと寂しくもあるなあ。『AURA』の主人公の偉さって、もしかしたらライトノベルにおいて自らが規範になろうとしたところにあるのかもしれない、と「グラン・トリノ」を観たばかりの自分は思った。
・ところでなんといってもこの作品の一番素晴らしいところはノーパンツでフィニッシュしたところだろう。これには本当に、心から、惜しみない拍手を送りたい。