ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

セッション


自分にはフレッチャーが単なる悪役として描かれているとは到底思えない。
ネイマンとフレッチャーは、「崇高な音楽は全てに優先する」という点で志を共有していた。スタジオ・バンドの洗礼は「音楽が正しいならば私に逆らうべきである」というエピソードだったし、かつての教え子の死を痛むフレッチャーの涙は偽物ではない。ネイマンがどれだけひどい振る舞いを受けようとも、退学後にフレッチャーの行為を密告しなかったのは、やはり行動原理を理解していたからだろう。
だがしかし、フレッチャーは裏切られたと感じたまま物語が進行する。彼は共通認識を持っていたと信じたからこそ、次の天才を追い求めて若者に辛く当たることができたのであり、同志だったはずのネイマンの裏切りは、かつての信念を破り去るに十分なものだった。フレッチャーが最後の演奏でネイマンに対してあれだけ酷な仕打ちができたのは、単に個人的な恨みでが原因なのでははなく、人生で最も重要な信念を汚されたからだ。
誤解を受けたネイマンは、「崇高な音楽は全てに優先する」という原則を今も彼が信じていることを、クライマックスの演奏で体現した。フレッチャーはセッションの中で、自分のネイマンへの疑いが的外れだったということに気付き、再び信頼関係が結ばれる。
ネイマンが信奉するバディ・リッチとの距離は、恐らく残酷なほど離れているだろうし、ブランクがあった彼の将来は全く約束されていない。この映画は天才を生み出さず、ふたりは崇高な音楽のために人生を棒に振る。しかし彼らは笑顔でその結末を受け入れ、その姿が何よりも感動的なのだ。