ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

神のまにまに!―カグツチ様の神芝居

 

神のまにまに!―カグツチ様の神芝居 (電撃文庫)

神のまにまに!―カグツチ様の神芝居 (電撃文庫)

 

 

「騙り手」という免罪符を手に、AとBという対立するふたつの集団を騙し上げ、見かけ上の平穏を作り上げて万事解決、という主人公の立ち位置を、自分は認めることができない。それでは根本原因が解決していない。
この作品で対立が解消されるきっかけが、アマテラスという絶対者の介入や神の起こした災害という、外部からの強制であることも、納得のいかない理由。

本来ならば妥協点を見つけ合うことのできるAとBが、「騙り」という手段によって、お互いの誤解に気づくというのが理想。「騙り」とはあくまで手段であり、到達点ではないはず。
ところが本作品は「騙り」が到達点になっている。問題が解決していない。そこにあるのはただ仮初めの平穏だ。


で、ぼくのかんがえた『神のまにまに!』。

クライマックスで婦人会会長が河童と邂逅したとき、「騙り」は完成されてはならなかったのではないか。
騙そうとする河童。騙されかけた婦人会会長。しかし婦人会会長は、母としての直感から河童が息子と別人であることに気づく。婦人会会長は河童に殴りかかる。殴られる河童。婦人会会長は、息子にまで化けて人を陥れようとするなんて、なんて汚らわしい存在なのだろうと、河童を罵る。そこで河童は、婦人会会長の息子がかつての親友だったことに気づく。河童の告白。婦人会会長が知る息子の死の真相。

少年の死に対する誤解は、対立の原因の象徴である。
「河童」という存在に罪をなすりつけていた母親が、真相を知ることでようやく息子の死に向かい合うことができる――とか筋書きを用意すれば、騙りなんて納得のいかない解法を用意しなくとも、上手い具合にストーリーが収まるんじゃないか。

「神」が側にいることで、中途半端に達観した視点を持った主人公を、「騙り手になりきれない騙り手」として描くのも面白そうだ。完璧に他人を騙すことのできる最高神アマテラス。騙されてもしあわせであるならばそれでいいではないか、と主人公を導く。
しかし主人公は納得いかない。騙りきれば簡単にしあわせにできるものを、人間の情が理解できるものだから、つい騙りきれずに失敗し、様々な困難を背負うことになる。だがその失敗こそが、物語をあるべきハッピーエンドに導くのだ。で、そんな主人公の騙り手になりきれない欠点が、アマテラスから非常に魅力的に見える……とか。