ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

フリクリ オルタナ

flcl-anime.com

オレは駄作にするくらいなら思い出のままとっておいて欲しいみたいな軟弱な信者的な言動は慎むように心がけてきていた。クソだろうとなんだろうとその作品の続編が世の中に出ることは素晴らしい。3つの傑作のために10年かけて3つ作品を創るより、10の傑作のために100の駄作をつくった方が良い。作品は形にしてナンボである。世の中に作品が出ていることはとりあえずそれだけで価値がある。クソだってケツの穴からひり出されなければクソ以前の何かでしかない。

だがしかし、今回ばかりはそんなオレの心がけが見事に敗北したことを白状しなければならない。オレは見苦しく軟弱な信者であった。こういう言動を絶対に避けようという遺志は圧倒的な感情の前に無力だった。認めよう、オレは醜い無印フリクリ原理主義者だ。

無印フリクリの魅力はそのストーリーにあると思っている。もちろんハイテンションな映像やアグレッシブな演出やカッ飛ばしまくりの編集やキレキレの台詞やそして何より情感くすぐるピロウズの音楽や、それらは当然全部素晴らしくていちいち感動してしまうのだけれども、それらと切っても切れないというかむしろそれらの演出を要請するのは不在の想い人を中心に語られる多層的なストーリーである。結局のところフリクリは不在の兄に憧れるナオタくんと不在のアトムスクを追いかけるハル子さんの恋愛を語る物語であり、巨大なアイロンとを中心とした町の舞台装置やマミミニナモリといった恋の当て馬や繰り返し語られる大人と子供の関係や額から生え出てくるチンコ、それらは全て童貞少年ナオタくんが純粋悪女ハル子さんにフラれるまでを描くために存在する。そんなん鳴り響くピロウズが最高に浸みるに決まっているのである。

じゃあオルタナはどうだったかというと、全くヌルい冒頭から学校のクソ雑なキャラ紹介の辺りまでで演出が無印ほどの志がないのはわかって、まあそうだよねこんなもんだよねと思いつつも、前作の構造があまりにも美しく強烈だったものだから、名前を冠している以上ちょっとくらいストーリーには期待していたのであった。女子高生がサークル活動で男根を生成しはじめた無理矢理展開にはちょっとだけついていけんなあと思いながらも一応テーマ的には頷いていたし、最初額から花が出てきた時は「マンコ出てきた!!」と感激した。主役が少年の時毛付きの突起物とギター=思春期モテたいドリーム=チンコが出てくるならば、主役が女子高生の時は花=生殖器=マンコが出てくるのは圧倒的に正しい、と、今でもまあ思う。

でもさあ、そこから引っ張り出したのがギターになってピロウズ流れてゴイーン! って、おまえ無印の何を見ていたんだ。恋愛から半歩下がって友達への想いを語れるようになるまでの話? 今更? セブンティーンでそんな話やられても、という感じ。いやもう難癖なのはわかってるんだけど、身を弁えてきちんと丁寧にそういう話を語ろうとしている感じもわかるんだけど、でもねえ、ああ、だめだイケナイ言葉が口から出てきてしまう、でもしょうがないよ信者だから俺は言うよ、「フリクリでそれやる?」。いやまあやっても良いんだとは思うんだけどだったらきちんとその構造を採用して演出が機能するようなアイディアをストーリーにブチ込んでくれよ。雑に前のイメージに寄りかかるのやめなよ。徹底してマンコで友情な仕組みを採用してくれよ。無印でアレだけ物語を牽引したハル子さんがこんなテーマにマッチングするわけがなく、ジョン・ウーの100倍ペラッペラなキャッチコピーの上で空転空転大空転で見ていてかわいそうだよ。ってかあのそば喰ってるおっさんの意味のなさは一体何なのアマラオ下敷きにしてなんであんなキャラ置けるの? 今すぐ無印FLCL見直してストーリー復習して、もしそれでもアマラオがどんだけハル子さんに深い傷を植え付けられたのか理解できないんだったら、オレの愛したFLCLの続編なんてつくらなくて良いです、と真顔で言ってしまうくらいには醜く無様な信者ムーブを行ってしまうのだった!

ああああああくそ代われ!! 頼むからオレに脚本を書かせてくれ!! 僕が一番、フリクリをうまく使えるんだ!!!!