ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

スーサイド・スクワッド

 

Huluで立て続けに見たマーベルシリーズなんだけど、どうにもこう全体的にピンとこなくて、知り合いのアメコミファンと映画の話をしたら、『エイジ・オブ・ウルトロン』と『シビル・ウォー』の評価が真逆でおどろいた。全然意味わかんなくて色々話を聞いたんだけれども、どうもアメコミではヒーローが自衛の権利を行使するという視点が大変重要であるらしい。いやまあ、ハリウッド映画が描くヒーロー像でもそのあたりはテーマになってくる作品はちょこちょこあるし、銃を持つ権利が憲法に記されて……なんて下りもたまに出てくるから、そういう概念があるのだなあというのはもちろん知っていた。でも日本文化で漠然と暮らしていると、連邦政府への不審感とか全然ピンとこないわけで、そこら辺の感覚の違いがずいぶん映画の見方に影響を与えているんだなー、と感心した。

そういう視座を得てから観た『スーサイド・スクワッド』なんだけれども、なるほどこういう映画はそれぞれのヒーローの戦う理由にフォーカスして作品を観ればいいのね。いやあ、蒙が啓けました。いやね、類型化してしまえばそれぞれの個人が社会に対して力を行使するパターンなんて決まっているわけで、例えば『シビル・ウォー』の最後のエピソードなんかも、それ単体で観れば「なんだそんな安易な仕組みでこのシリーズ全体を駆動させていたの?」というようなレベルに収まっちゃってると思うんです。自分はそれでだいぶ興醒めしてしまった。でもたぶん重要なのは、それぞれの動機をもっと抽象化して、一種のイデオロギーとしてそれぞれの動機のぶつかり合いを捉えることだったんだろうなあ。

そうやって考えると、『スーサイド・スクワッド』におけるヒーローの動機というのは大変クレバーにできていて、最初は「殺されないため」に戦っていたヒーローたちが、中盤で指導者を失い戦う理由を喪失、生死なんてどうでもいい状態に追い込まれるんだけれども、そこで再び身近な人間への愛のために再起する――という流れが大変わかりやすく描かれていて感心。バーのシーンで「酒の力を使ってミラクルを起こすのか?」とか思ってたら、ストレートにトラウマ告白が始まっちゃってあれあれーと思ったけど、でも愛の話というまとめ方をするには、ああいう真正面からのブン殴りエピソードが必要だったのね。それ単体じゃちょっと辛かったかもしれないけど、そこに「コップと炎」の演出があって本当に良かった! ラスボスも、娘ファンタジーシーンをギリギリのクサさで描きつつ、最後にハーレクインの「LOVE」の弾丸が爆弾を撃ち抜く……という作品のテーマを凝縮したクライマックスで、もうあのシーンを観ることができたら、はい、もう大満足でございます。

 

とはいえ演出が強弱をつけ損なっていて垢抜けない感じになっているのは大変不満で、いくら名曲をブチ込んでも名曲を生かす演出がデキなかったら台無しよね。冒頭のモッサリした感じでもうこの映画どうなってしまうのかと思った。ハーレクインのキャラがもう凄まじく良くできていたけれども、それはキャラデザの力って感じがスゲーしたので、もう少し映画の演出で周囲のキャラ付けも強くできたらよかったのになあ、と思いました。