ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

ズートピア


アナ雪なんかの「同調しやすくいテーマが全面に出ていて語られやすいがためにヒットする」なんて脚本よりもメチャクチャ注意深く自分の立ち位置なんかを考えながら創られていて、基本的にはとてもすごいし賢いし優れた脚本だと思う。 ピクサーと合併したのはこういう所に影響が出るんだろうなあとか感じる。
が、やっぱりそれでもはっきり言うと、脚本がクソだ。
この映画の根幹には、「動物は姿形が変わっていても何にでもなれる」という明確なテーマが流れていて、大中小の動物のサイズによる明快な差違を乗り越えるだけではなく、主人公に「ウサギの私に可愛いって言うのはちょっと……」とわざわざ言わせるような、他者に外見から導かれる役割を押しつけるのも差別である、みたいなクソデリケートな内容を明確に含んでいる。「あなたは何でもなれる」→「だから私にステレオタイプを押しつけないで」というのはまあ確かに望むべきことではあるのだろうけど、しかしそのステレオタイプが社会においてある程度の役割を果たしてしまっているのも事実であり、その型から逃れるには大変な努力を要する。「刺青をしているからといって戦闘に入れないのは差別だ」というのは大変まっとうな物言いだろうけど、刺青をしてしまっているひとの側に近づきたくないという人の心を否定するのは大変難しい。外見によるステレオタイプは、その善悪はさておいて、現に機能してしまっているのだ。
ズートピアの脚本は物語を語る上で、その大変しち面倒くさい逃れがたいなんやかんやを、大変賢いことにあの「青い玉」に押し込めてしまった。曰く、外見によっての差別を利用(逆利用)するのは青い玉を用いて世の中を操作する「悪人」であり、その悪人を排除し青い玉を技術でコントロールすれば世の中はユートピアになるのだ、と。その証拠に物語的な共感を得たキツネくんは最後に差別を乗り越えたではないか、と。で、エンディングで美しいガゼルが踊り、その周囲にはセクシーなマッスルライオンが侍っているのである。
マジでクソでタチの悪い脚本だと思う。
現実に青い玉はなければあんなにわかりやすく読者を裏切ってくれる悪人もいない。現実に機能している差別ってのはクソめんどくさい。風呂刺青問題なんて悪人もいなければ正解もいなく、誰かを悪人にしてすぐに結論を出せるモノじゃないのだ。
でもその現実のクソめんどくさいなんやかんやを、物語という枠組みに収めようとするときに、人は物語を、例えばスッキリとするための勧善懲悪を、求めがちである。が、勧善懲悪を求めた途端に、我々の中に根深く根付いて逃れがたい差別の細部は、消えてしまう。
物語るという行為は多かれ少なかれ、その登場人物の細部を累計に纏めて解釈しやすいものにするという働きを不可避的に負ってしまっている。ウサギとキツネが警官になる、という構造すら、先入観を逆用しているという物語的な構造を逃れきれていない。例えばあのエンディングで醜い豚が歌姫として登場すれば、それは「偏見を裏切るという物語」へと回収できるが。だが美醜の価値基準と関係ない、犬や歌姫として踊るエンディングの無意味さに、耐えきれるだろうか?
この作品の脚本のテーマは、物語がキャラクターに役割を負わせることの根本的矛盾を余りに軽視している。そういう意味で、オレはこの脚本はメチャクチャ賢く意識の行き届いているとは思うが、はっきりクソだと確信する。こんなテーマを中心に据えるくらいならば、物語では語らないべきなのだとさえ思う。