ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

バケモノの子

細田守が凄まじい演出力持ってんのは知ってる。すげえ知ってる。なんだかんだで『おおかみこどもの雨と雪』も『サマーウォーズ』も『時をかける少女』も劇場で観たし、『デジモン』も観たし『どれみと魔女をやめた魔女』 も再放送を録画してピンポイントで観た。ってか俺以外と真面目にちゃんと見てるなえらいじゃん。
で、観る度毎回すげーと白旗上げる。何だよこの演出力はと思う。バカじゃねーのと思う。なんなんだよこれなんで俺涙ぐんでんだよ。ワケわかんねーよ。
そう、ワケわかんねーのだ。なんで俺、こんなお話に心を揺さぶられてんだ? 例えばこの物語から画と声と音楽を取り去って、全てを文字で説明したら、この感動はきちんと俺の涙腺を揺り動かすのか? たぶん泣かない。全然泣かない。だっておかしーよ。なんで日本中がパニックに陥って、各地で色んな人がそれぞれ社会のインフラを守ろうと必死になってる中、ネットでその背後に膨大な人々の生活を敷いておきながら、たかがばーさんひとりの死で結束しちゃった家族が、世界の危機を救っちゃう特権性付与されちゃうわけ?
でも映像作品ってのはたぶんそういうものなのだ。物語的整合性だけでは乗り越えられない飛躍を可能にするのが、画がついて声がついて音楽のつく映像表現ってヤツなのだ。で、細田守ってのはたぶん、その映像表現に対してとんでもない魔術的な技術を持っていて、大抵の破綻しかけた物語すら、なんとなく上手く言っているかのように成立させることができるのだ。
んじゃ、物語はどうでも良いわけ?
んなわきゃねーだろ、と俺は思う。
おおかみこどもの雨と雪』『サマーウォーズ』『時をかける少女』は奥寺佐渡子が脚本を書いた。この脚本家はそんなに好きではないけれど、『おおかみこどもの雨と雪』『時をかける少女』みたいな女性視点からの語り口の時はやっぱり大変切実なテーマを描くことができているように思う。原作未読だけど映画の『八日目の蝉』は素晴らしい映画になってて、あれなんかなかなか男には書けない脚本だろうなーと思う。反面、『サマーウォーズ』みたいな童貞オトコノコがクソビッチ(サマーウォーズ見た後1時間ヒロインの話で粘着しまくった後輩が命名)とドキドキサマータイムでうひゃーっとしてとりゃーとしていっちょオトナになっちゃうぞー! という映画の夏のエスエフのアレはどうしても不格好になっちゃう。『とある飛空士への追憶』もそんな感じだったよねーとか。
いやもちろん、映画が監督の作品である以上、元の脚本にどれだけ味付けがされてああいう出力になったのかはわからない。わからないけど、重要なのは「脚本の中にどんな語られるべきテーマ」が眠っていたかということであって、ウィザード級の演出家にそのテーマを提供できたらもう脚本家の仕事としては全然オッケーじゃねーの、とか極論思ったりもする。

で、『バケモノの子』である。
監督自ら脚本を手がけた本作で、「父子関係」を描こうとしたのはチョーわかる。たぶん奥寺佐渡子ではこぼれ落ちる部分だもん。子供も観られる娯楽アニメとして、この題材を選んだのは十分理解できる。
理解できるけどさー、これ、「父子関係」の上っ面をすげえ演出力で描いているだけで、全然、構成がなってないんじゃないの? そもそも主人公が闇を抱くまでの経緯が雑すぎて雑すぎて話にならなくて、あの親戚のうんこ汁が透ける粗悪トイレットペーパ(シングル)より薄っぺらなあの悪意のぶつけ方は映画の導入から観るものを不安に追い込んでならないよね。主人公に決定的な運命を背負わせる道具立てとして、あまりにあまりにあまりに雑。
全体の構成としたらさ、主人公とライバル主人公が父親関係でも対になってるわけでしょ? 何でライバル主人公あの外見で男なの卑猥なの? じゃなくて、なんでライバル主人公が時間経過であんな闇落ちしてなきゃいけないの? 聖人君子のライバルパパって、普通以上に優しく息子を育ててたよね。いやまあ、それはまあ子育てだから力及ばず失敗することもあったとして、なんであのライバルパパが息子の闇を解消してあげないの? なんで主人公が自分の胸の闇を獣パパの魂で埋めちゃうの? その闇は獣パパが自分の魂を捧げて転生しなければ埋まらない物なの? 違うくね? だって全然性的なニュアンスのない聖母ヒロインが言ってたじゃん、「闇は誰にでもある」みたいなこと。でも自分の命を捨てて転生して闇を埋めるような父親ってどこにでもいるわけじゃないよね? じゃあその特別な父親がいなければ埋められない闇の描き方ってマズくね? ってかそもそもなんで、主人公は聖母ヒロインとの男女関係の構築で自分の闇を呑み込むことができなかったの? なんで「うおりゃー!」暴力行為であの闇を沈めるとか全く意味のわからない解決になるの? 何で代々木体育館のうねる屋根の上でクジラと戦わないの? なんで?
物語全体から、「なんか強くててカッコいいパパ」書きたいのはわかるんだけど、その困難ってわりと前半で回収されて、時間経過後の主人公と獣パパと人パパのドラマへの関連性が希薄になってるよね。例えば獣パパが「自分を親父と呼んでもらいたいと思っている」みたいなテーマに直結する命題をブチ込んで、人パパが登場した時自信喪失させた後、闘技場のバトルで主人公が獣パパを「父と認めるかどうか」みたいな流れにすりゃいいじゃん。なんで最初と全然変わらない「共感」の叫びで物語が展開すんだろう。でもってそこで解決した父子の絆の姿が、ライバルとライバルパパの問題を解決したり、人パパと主人公の関係を好転させたりすりゃいーじゃん。なんで最終決戦が人の闇がどーのこーの、父子関係とちょっと離れたところが最終テーマになってんの?

んー、つかさ、思ったんだけど、これ、こうやって語ること自体に困難をきたす感じがある。物語的骨格は間違いなく埋まってるんだけど、その場凌ぎのエピソードを繋ぐだけで、そこから骨格を掘り出す努力がされてないように感じてしまう。物語を構築する意志がないから「どこの接ぎ木で間違っている」ってすげー言いづらい。ぶっちゃけ監督、父子関係の構築にそんなに興味ないんじゃね?

んじゃ細田守作品には語るべき何かがないのか? とか思って映画を観てたんだけど、俺はもしかしたら細田守の作家性はかわいいショタッ子にあるのではないかと思うって話をしたいのではなく、じゃあケモショタか。ケモショタだな。ちがう。あの「中二病感覚」にあるのではないかと思った。
ってか、明らかに変だよねあのキャラ付け。年取って思春期迎えた後、主人公もライバルも盗んだバイクで走りかねない錆びたナイフだし、やっと出てきた人間性を回復させるヒロインは超意識高くてその割に全然性的な素振りを見せずマジ聖母で逆に童貞臭がヤバイし、あと現実世界に戻ってきた時突然高まるポエム力がヤバイ。渋谷を不思議パニックに陥れた後夜の代々木体育館で異能バトルだぜ! とか満ちあふれる中二病マインドに俺は俺は俺はもう椅子の上でジタバタジタバタたまらんかったのです。でもなんで体育館の屋根に上らなかったの? マジで。

あー、とにかく、もっと「語るべきテーマを持った脚本を下敷きにした」細田守映画が観たいです。ウェルメイドじゃなくて怨念だの欲望だのが染み出してくるようなヤツ。王族の血を引く娘におっさんが子作り迫ったりブタがかっこよく空飛んだり妻の命よりも仕事が大事だと真顔で言ったりしちゃうヤツ、いややっぱいいや、うん、そこまではしなくていい。
しなくていいけど、せめて、きちんと1本貫いたテーマが脚本から伝わるような、それに魔術師じみた演出力が作品に相乗効果を生んでしまう、そういう映画が、観たい。心底観たい。だからまともな原作とか、脚本家とか、ついてくれ。頼む。