ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

マッドマックス 怒りのデス・ロード


なにはなくとも「車」の映画である。「異世界のあり得ない車」を中心に据えることによって、過去に幾度となく繰り返されたカースタントに新たな光を当てるという、揺るぎない指針の下に映画全体が設計されている。
その車は、環境が激変し文明が崩壊してしまった地球で、かろうじて生き延びる人類の寄る辺でもある。砂嵐に軽々と命を吹き飛ばされる人間は、死に場所を探し、ガソリンを求め、V8エンジンを信仰する。それはもしかしたらオーストラリアという不毛の地での生活のリアリティにも下支えされているのかもしれない。極限まで切り詰められた道具立ての中、生と死と神話性を、映画の中心点たる車が圧倒的存在感で担保する。
だから物語は自然と象徴性を帯びる。かつての緑の地に横たわる木は、その枯れた幹で主人公たちの命を救う。引き替えに湿地に倒れ、夜霧に消えていく木の姿を、追いかけずにはいられない。

唯一残念に感じたのは、妻が死んでそれまでのストーリーラインが破綻した後の展開だ。その後の息子を取り上げ死を悼むシーンも含めてそれまで「息子のため」という目的が明確だったイモータン・ジョーにとってあそこは大変重要な転換点になるべきではなかったか。それまで明確な目的があって資源を消費してきた教祖が、個人的な「怒り」のために「デス・ロード」をひた走り、マックスたちに追い縋る展開にもなり得たのではないか。
それが映画の質や人物配置を変えてしまうことは承知の上だが、しかし、それを期待させるだけの衝撃が、あの破綻の瞬間には存在した。