ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

放浪息子

放浪息子 1 [Blu-ray]

放浪息子 1 [Blu-ray]

きちんと返答をしなければならないメールがいくつかあるがまあ酔っ払っているので後日に回して、今日はアニメ放浪息子がいかに優れておりオレが千葉さんをいかに愛しているかを書き殴る。つらつらと思いついたことを書くが酔っ払った勢いのことなので許して下さい。
っていうかもうオレ千葉さんが好きで、好きというか最早愛していて、いやマジで千葉さんに「バカな大人」みたいな視線で睨み付けられる担任と入れ替わりたく、いやあんな視線で睨まれたらきっとオレはあまりの幸福感に失禁してその場にへなへなと倒れ込みそれがきっかけで教師を辞めてただ千葉さんに睨み付けられたあの瞬間をずっと胸の奥に大切な思い出としてしまい込みながら酒に溺れそっとひとりでうだつの上がらない人生を終えたい。是非そうしたい。

さて、アニメ放浪息子の素晴らしさは「原作の世界観を尊重しつつ」「作品構造から立ち上がるテーマに焦点を当て」「原作とは異なる結末を成立させた」ところにある。コレはすごい。マジですごい。世の中には「原作を尊重して」とかいって「単に原作ファンのブーイングが怖かったんじゃねーの?」と思える作品とかが結構あったりするけど、放浪息子は違う。全然違う。
原作のキャラクターの受け取られ方を完璧に把握し「あーうんこのキャラならここでこういう行動を取るよね」というのが納得できる格好で物語を再構築しているのだ、というか原作読み返してみたらむしろアニメの方がキャラクターをより納得しやすい格好で表現している感さえあったのでビビった。原作への理解度がすごいし、きっとスタッフもそこには自信を持っているのだろう。
そこに自信がなければ放浪息子の心のオアシス佐々さんに、原作には全くなかったうんこ台詞「変なの出たー?」とか言わせられるわけがない。これはマジで普通無理。

でまあ、そのくらい素晴らしいアニメ放浪息子がいったい原作から「どんな作品構造を抜き出した、強調したのか?」というと、それはまあ月並みだけど「肉体的な成長と、それに対して各々がどのような態度を取るか」である。アニメ放浪息子ではこのテーマを徹底的に描くために、「中学入学から2年の文化祭まで」という限定的な期間を原作から切り取っており、作品全体を「ふたつの文化祭」が中心になるように構成している。
のだが、まあ冷静に考えてみるとそれって普通に信じられないくらいのチャレンジだ。第1話を見ればわかるように、放浪息子ってキャラが多い。原作だと小学生から順に物語が進むから、各人物の性格がきちんと把握できるんだけど、それを突然中学性から始めたら、まー混乱するよな。実際原作未見でアニメから見た人は、キャラを覚えるのが大変だったんじゃないかなーとは思う。でもまあそれは製作側からしたって百も承知なワケで、それでもあえてその形式を選んだ理由は、ひとつにはそういう不親切な導入でも初見の視聴者が楽しめるだろうというキャラクターの強度への信頼であり、またひとつにはそのリスクを負ってまでアニメ独自のテーマを描ききろうという意思があったのだろうと思う。

アニメ放浪息子の第1話は中学校の入学式から始まる。クライマックスは月の光を背に二鳥くんが夜桜が散る街中を疾走するシーンなのだが、オレは正直それを見て「そんなに桜散らして大丈夫かよオイ」と心配した。今になってみると、その桜こそがこの作品全体のテーマを暗示しており、いや実に素晴らしい第1話で、特に疾走する中高槻さんを魚眼でぬるっと見つけるシーンなんかは失禁ものなんだけど、まあしかしそれはそれとしてなんでなんでオレが桜にこだわるかっつー話を確認がてら先にすることにする。

オレは女性の捉える「学園生活」ってのは男性の捉える「学園生活」とはまた違うんではないかと考えてる。「男はいつまで経ってもガキ」っつーのは、逆に言えば「女は不可逆の少女時代を過ごしている」っていうことを示している。で、女性は無意識的にかもしれないがそのことを男性よりもはっきりと自覚しているんじゃねぇかなあ、と。
でまあ、創作の上でそれがどう表現されるかって言うと「写真」を撮るという行動だったりするのかもしれない。今しかない一瞬の輝きを切り取るという行為は、必然的にそれから未来、その輝きが褪せていくことを意味している。アニメ「けいおん!」の最初の方とか、しつこいくらい写真を意識させているのは、本来成功を掴むために過去を振り返ったりはしない「バンド」っていう男性的なモチーフを、女性視点から語り直すために必要な手続きだったんだろーな、とか思ったりもするのだがあずにゃんが入部した時点で努力したい人間が空気読めない人みたいな扱いになってるのが心の底から機に食わず見るのをやめてしまったので本当のところはわかりません。スマン。

ところで、じゃあ女性視点で学園生活は「失われていくもの」としてしか捉えられ得ないかっつーと、オレはそれは違うと思ってる。もちろん個人の成長は止められず、皆は最後には学園を巣立っていくわけだが、しかし視点を広げ例えばサークル活動という組織を軸に学園生活を捉え直すと、途端にそれは三年で入れ替わるひとつのシステムとして永続性を手に入れる。まー「マリみて」なんかは典型で、1年で入学してきたひよっこが成長し、やがて自らが教える立場となって卒業していく、というようなサイクル。もちろん演劇部でもなんでもいい。
でまあ、そういう「個は入れ替わるけど組織は永続性を持つ」という学園を象徴するもの、それが「散る桜」なのだ。と思って、オレはいつも入学式の桜のシーンを見てます。

で、話は戻ってアニメ「放浪息子」。
まあ短く言うとこの話は、オンナノコになりたいオトコノコの二鳥くんが、成長していく肉体的変化と向き合うことを余儀なくされ、それでもオンナノコになりたいという決意を固めるまでを描いているんだが、「失われてしまうもの」を軸に話を見ると色んなことが見えてきて面白いワケで。
女性である高槻さんが、最初に胸が膨らみ男性性を「失う」こと。二鳥くんが声変わりで女性性を「失う」こと。そしてふたりの「失われつつある」男性性・女性性に自覚的である千葉さんが、彼女たちの写真を飾っておくこと。
そして何よりこの作品が描こうとするのは、その先、若さ故の両性性を失なうとき、彼/彼女がどのような態度をとるかだ。年を取り、ヒゲが生え、大人になった二鳥くんが、それでも女性として生きて行くために、彼は世の中と戦わなければならない。その覚悟が、果たして彼にはあるのか?
でまあ、演劇の舞台に、声変わりのまま出て行く二鳥くんの足元が映って、作品が閉じられるわけだ。そりゃ感動的だよ。

でもねー、本当に泣けるのは千葉さんなのよ。原作から3人の関係性を強調して脚本を再構成したことで、彼女の悲劇性が一気に強調されてしまったのよ。原作準拠の「誰かの愛人にでもるわ」シーンは思わず10回くらい見返してtorneのサムネイルに設定しているのよ。
千葉さんは世の中となんて戦えない。だから高槻さんが妬ましい。遠回しに高槻さんに女の子らしく生きて行けば、なんてことを言っちゃったりする。でも高槻さんは、二鳥くんと一緒に戦うことを決意してしまう。
最終話の千葉さん無双ったらないよ。前半の女装抱きつきシークエンスも素晴らしいけどね、「流れ星」シーン(アニメオリジナル!)で二鳥くんモノローグ後ろの千葉さんの遠い目、そして願い事を放棄しだらりと垂れ下がる二鳥&千葉の腕(!)とか。二鳥くんの告白シーンを廊下から見下ろす千葉さんが、高槻さんの生き方を認めつつ、逆方向へと歩いて行くシーンなんて、もうね、涙無しでは見られませんよ、ホント。

うーん、まだまだ書き残したことばかりだけれども、そろそろ酔いも覚めてきたので、最後にこの作品がいかに2度の「演劇」を非常に上手く生かしているかを確認しておく。
1度目の演劇がマコちゃんの演劇であるのに対して、2度目の演劇が二鳥くんの演劇であるのは、マコちゃんの「失ってしまうことへの恐れ」が先行していることを示す。1度目の演劇で上手く生徒をコントロールできなかった担任が、2度目の演劇で二鳥くんをきちんと学園に復帰させたのも素晴らしい。
この演劇のタイミングで大小問わず各々の様々な物語が回収されており、まあなんというか見事な脚本と言わざるを得ないのだけれども、その中で一際素晴らしいのは、オカマのユキさんである。彼女にとって暗い思い出ばかりが残る学園生活が、二鳥くんの決意によって擬似的に回復されるのが、2度目の文化祭である。1度目はスーツで参加したが、2度目は彼女本来の姿である女性の格好で参加しているのがその象徴。暗幕を潜る彼女を背から光が目映く照らしていて、まるで彼女が遅れてやってきた主役のようすら見える(!)のは、もう感動的と言わざるを得ないよねーホント。

あー、早くBDこねーかなー。