ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

紫色のクオリア

紫色のクオリア (電撃文庫)

紫色のクオリア (電撃文庫)

今更読むのだけれども、なんか踏み絵っぽいというか、これを読んでどう反応するべきかとか考えながら読むのが馬鹿臭くなったので、虚心坦懐に読むことを心がけました。

以下雑感。
・最初の1話の着想がとても愉快。会話なんかを読んでニヤニヤ。ラストの決着の付け方も参りました。
・2話中盤は、「私」の存在がどんどん拡張されていく様子にドキドキしながら引き込まれた。インフレーション。こういうジャンルじゃないと得ることのできない感覚に大満足。
・限界以上に膨張した「私」が、ラストで個と個の対話で一気に収斂するその構想は、非常に美しい。
・ただ、その構造的なアプローチに対比されるべき「感情」の部分がちょっと形式的な表現に止まっているような印象を受けた。その両輪がそろってこそ、クライマックスがガツーン! と決まる。
・中盤に感情移入できないのはこういうメタ物の宿命みたいなものだからしょうがないかなあ、とは思うんだけど、でも身近なエピソードの端々に人間性の欠片を(「殺し合い」なんて大仰で形式的な表現ではなく)潜ませることは可能だったんじゃないかなあ。そして読者はそこに感情を強く揺さぶられるんじゃないのかなあ。
・何より序盤、「彼女が私にとって特別な理由」をきっちり提示できていなかったように感じた。彼女の死は、他の友人の死や両親の死と比べてそこまで特別なものだったのだろうか?(小説『バニラ』の百合に納得してしまったのは、ふたりの愛情の描写に加えて「銃を手にすることで世界にふたりきりで立ち向かうことができる」という構造が余りに神聖なものに感じられたからだ。もしこの小説の主人公が彼女たちだったら、時空を行き来してもしょうがねえかなあ、と自分は思う)
・別に百合が悪いってワケじゃないんだけど、これだけ大げさなことをする以上、たとえば単純に主人公を男性にしなかった理由ってなんなんだろう? 短編が先行したから仕方なく、以上の意味を見いだせるのか、考え中。
・「クオリア」が本当にそうやって定義されていいのかがわからない。「赤さ」はわかるけど「ロボットのように感じること」ってクオリア範囲内のことなのか。「わたし」が「あなた」になれない絶対的な断絶の保証として使われるなら、まあ、なんとか理解はできるのだけれども。
・しかし自分アタマが悪いなあとつくづく思わされる話であった。