ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

サマーウォーズ

映画としちゃあ非常に良くできてて先週末でも満員御礼なのがよくわかるデキだけれども、それはそれとして脚本が全然納得いかないよねという話。


「なぜどこにでもいるはずの僕が、世界を救うことができたのか?」

僕らは夏に世界を救う。そんなのは当たり前の話だ。
たとえばそのきっかけはタイムトラベルの発見かもしれない。宇宙人との邂逅かもしれない。超能力の発見でもいい。
僕らは夏に、誰にもできない特別な体験をし、世界を救う。それはそんなに不思議なことじゃない。
でも、サマーウォーズの主人公はなぜ、世界を救えたのだろう?


「ネット」という媒体と「僕らが世界を救う」というシチュエーションの組み合わせは食い合わせが悪い。非常に悪い。
ネットに繋がり、そこに他者を発見した途端、僕が操る勇者は世界を救う唯一の勇者ではなくなり、ナンバーワンよりオンリーワンなレアアイテムの収集に奔走することになる。
「ネット」という皆に平等な場は、「どこにでもいる僕が唯一世界を救うことのできる人間」という特殊性を真っ向から否定するのだ。

(そういうコミュニケーションの象徴としてのネットとは別に、ただ純粋に強さを求めるネット格ゲーの系譜がある。この映画でもそういう位置づけのキャラクターがいるけれども、彼が「世界を救えるほど強い」ことへの説得力は圧倒的に足りていない。少林寺拳法習ってて世界が救えるんだったら中国人最強)

「ネット」という場で戦うんだから、あの花札シーンの(演出のおかげでかなり感動的な)逆転劇は、「僕のアカウントも使って」ではなくて、「おまえが負けても世界中の人間がポーカーやルーレットや麻雀で戦って勝つ!」という図式の方がたぶん正しい。


でも古典的な善悪の対立の図式からして、主人公はやはり主人公としての活躍を求められる。彼と彼らの家族が世界を救えることに、何らかの説得力が付与されなければならない。
で、その説得力はいくつか用意されているものの、そのうちのひとつに「婆ちゃんの死」がある。悪者の大活躍でネットのインフラがダウン。運のいいことに直接の死人は出なかったが、それが遠因となって婆ちゃんが死んだ。
だから僕らは悪を倒さなければならない。

嘘くせえ。

いやここは突っ込むところじゃないのはわかってるんだけど、その婆ちゃんの死が動機付けとして有効に機能するように婆ちゃんをすげえ立てて、しかもそれを中心に回ってる家族の絆をこれ以上ないくらい生き生きと描いているのはわかるんだけど。
でもやっぱりこのインフラシステムダウンでダース単位で自殺者が出てないわけないわけで、その自殺者にも家族がいるわけで、ネットという皆に平等な土俵で戦っている以上、彼らのことをさておいて婆ちゃんの死で主人公たちの活躍に特殊性を与えてしまうのは納得いかねぇ。だったら最初っからネットとか使わなかったらいいんじゃね? と思う。


でもまあそれはそれでなんか面白くないので、じゃあネットをガジェットとして使ったまま、それとは別の視点から主人公に「世界を救う説得力」を与えるにはどうすればいいか? を考えてみる。

おじさんを使えばいい。

この作品の人間関係は「婆ちゃん←おじさん←先輩」という好意の三角関係に「おじさん←先輩←主人公」という三角関係が被さっている。
婆ちゃんから先輩に何かが受け継がれたのと同様、おじさんから主人公にも「世界を救う説得力」を持つ何かが受け継がれても良かったはずで、それがあれば主人公だけが世界を救うことができることに理由付けがなされるのはもちろん、成長譚として主人公が先輩と結ばれることにも説得力が増す。

というか改めて考えると、なんでおじさんと主人公の関係をあんなに描いていないのか謎な気がする。自分が見逃しただけだろうか?


以下雑感。
・良くできてることは認めなきゃならない。本当に良くできてる。すごい。
・ネットでのバトルシークエンスには純粋に感動する。
・貞本キャラかわいい。動きに映えるわ。
・意図的なものなのはわかるが、田舎幻想がちょっとひどすぎる。ってかあの台所絶対立ちたくねえ。あそこは鬼が棲む。棲まねぇワケがねぇ。
・悪役に説得力を持たせるのが困難になっているなあ、と思う。人工知能の暴走があのような非常にわかりやすい悪の形をとって現れることに、オレは怒りを禁じ得ない。でかけりゃ強い? AIの恐ろしさってそういうところに求めちゃっていいのか? エンターテインメントとして正しい姿なのはわかるが、しかしそれでも捨てちゃいけないものってあるんじゃないのか?