ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破

映画館で号泣してしまった。参った。

「序」を観たとき一番印象に残ったのは、10年分の技術だった。画面上に暴れ回るエフェクトの綺麗なこと! トップ2やグレンラガンでも感じた画面効果の進歩が、映画というがっちり手間暇をかけられる媒体で爆発した――そんなイメージだ。

「破」の前半を観たとき漠然と感じたのは、エヴァの動きの心地よさだった。もちろんエフェクトもしっかり効いているのだが、稲妻キックや全力疾走で炸裂するエヴァの生身のアクション、純粋なアニメの「動き」に酔った。

でも、「破」のラストシーンの感動は、たぶんそのどちらでもなかった。


映画が「映画」になる瞬間があると僕は信じている。
ストーリーと演技と音楽と、その他映画を構成する諸々の要素が組み合わさって、単体では決して味わうことのできない感動を与える瞬間。


「破」のラストシーンで、シンジは手を伸ばす。
押し寄せる圧力に吹き飛ばされそうになりながら、身体が人間と異なる何かに変質していく中で、それでも彼女を助けようと、懸命に手を伸ばす。
それは10年前には届かなかった手だ。あの時届いて欲しいと僕らが心から願ったが、しかし届くことがなかった手だ。
押し寄せる圧力は運命だ。二人の距離は縮まらない――過去の記憶が残酷に言い放ち、僕らを諦めさせようとする。

それでも、シンジは手を伸ばす。
迷い、傷つき、苦しみながらも、自分は彼女を救いたい、救うことができるはずだと信じて。
黒くめくれていくシンジの頬は、彼の苦しみを表現して余りあった。
伸ばそうとしたその手は、どんな言葉よりもはっきりと、彼の願いと意志の強さを表していた。

シンジの手の動きには、過去の記憶を塗り替えて、10年の時を突き破って、新たな希望の物語を紡ぐことができる――そんな説得力が確かにあった。
それはたぶん「アニメ」にしかできない表現で、ストーリーや演技やエフェクトや音楽や、受け手である自分のバックグラウンドが、アニメの「動き」を媒体に昇華された奇跡のような瞬間だった。

そして僕は、そんな奇跡を起こすことができるアニメという表現に、その表現を目の当たりにできた幸福に、涙せずにはいられなかったのだ。