ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

五稜郭残党伝

 

うおおおおお……すげえな……この前高原児でずっこけて、「日本で西部劇やる時こんな感じになっちゃうの!?」と思ったけれども、そうだよなー開拓の本場といったら北海道だよなー……。

と思いつつも、やはりそこには先住民、アイヌとの軋轢があるわけで、たしかになかなか安易な覚悟ではエンタメにできない題材だよな、とは思う。最近『ゴールデンカムイ』映画化がアイヌの方からの批判で話題になっていたりするけれども、確かにこういう取り上げられ方でスッキリ終わられると「うーん」となってしまうな。『ブラッド・ダイヤモンド』のディカプリオの贖罪の死みたいなのを連想してしまう。まー向こうの方が構造が隠蔽されていて悪質だとは思うけど。こっちの方はまだ構成が露骨な分、逆にまだまし。

しかし構造として「お上に追い込まれる反乱軍・先住民」視点で描かれるのは色々考えさせられるところがあるよなあ。これだけきっちり弱者・はみだし者の視点を描いたのに、最後の宣言が現在に繋がることはない、という現実とフィクションの切断と、それが当たり前に受け入れられていることにたいしてやっぱり考えさせられてしまう。バディ感・ロードムービー感がよくできているから、なおさら。

っていうか、文化的支柱の根っこに「西部劇」という刻印が押されているアメリカは、逆にすげえよなあやっぱり……

バブル

wwws.warnerbros.co.jp

人魚姫がモチーフになっているが、これは当然泡姫=ソープ嬢の比喩だろう。津波が年を襲うビジュアルが挿入されるからには震災の物語であることはほぼ間違いなく、これはつまり震災(コロナ禍)によってかつての故郷を追い出され、東京でソープ嬢として生計を立てざるを得なかった貧困女性の問題を、パルクールアクションに仮託して紡いだ作品に違いない。

そう考えると俄然納得いくのが王子様である。原作の人魚姫はいきなりキスしたりしないと思うんだが、このアニメでは序盤から惜しみなく主人公とヒロインをちゅーさせており、急に山場を持って来ていったいこれはなんだと普通は訝しむ。が、これを特殊浴場内で行われた自由恋愛の比喩と解釈することで全ては合点がいく。推察するに、王子様は彼女の幼馴染みであり、田舎から東京に出てきて起業を成功させ、現在タワーマンションで悠々自適な生活を送っている。気まぐれにやってきたソープで偶然幼馴染みに再会するが、しかし彼はヒロインのことに気付かない。彼女がその時受けたショックが、東京中のタワマンを破壊させるあのビジュアルに結びついたのだろう。

そう、この作品の根底には、はっきりと貧困と格差の問題が流れている。勝利のパーティーで彼らが口にするのが出来合いのスナック菓子であることに、自分は涙を禁じ得ない。我々が享受できたかもしれない豊かさは、高度経済成長のシンボルであった首都高や鉄道や東京タワーとともに、バブルに呑まれ海底に沈んでしまっているのだ。

ここまで来れば、もう答えは出たも同然だろう。この作品は、生活に耐えきれず大量の薬物投与によって自ら命を絶ったソープ嬢が、人生の最期に見たうたかたの夢なのだ。要所要所の「美しい光景」がまるで地方のデパートの催事場で行われるラッセンのイラストのように見えてしまうのも(サイケデリック!)、合間に急に挟まる紛争のビジュアルと平和への願いが唐突に思えるのも(スピリチュアル!)、文化的な貧しさが彼女の想像力を削いでしまっていることから導き出される当然の帰結だ。

息絶えた彼女の枕元に、待機時間に読んでいただろう『弱虫ペダル』が積まれているところまで、オレにははっきりと見えたのだが、あれは果たして幻だったのだろうか。

歌え!ロレッタ愛のために

 

あー、これ実在の人物を下敷きにしているのね。結構ダラダラとりとめもない話だよなーと思いながら見たけれども、そういうことならなるほど納得、という感じです。まあ例えそうだとしても、もう少しなにか抽出して欲しいなーとは思ったけれども。この歌手のいったいどの辺りに語られるべきものがあったのかが正直よくわからんなーと思いました。女性のソロシンガーがラジオ局巡ってシンデレラストーリー、みたいな枠組みがセンセーショナルだったということなのかしら……? それとも時代的に女性の権利みたいな所と絡むのかしら? カントリーにおける女性シンガーの立ち位置とかさすがによくわからんからピンとこないよなあ。ただ、夫が献身的に支える立場がこうさらりと描かれているからやはりそこらへんに力点は置かれているか。

主演女優が吹き替えなしで歌唱しているってのはまあやっぱりすごいよね。特に最初に人前で歌うところとか、皆の前で自分を表現する喜びみたいなのが芝居として出てて、それがこのストーリーの一番不自然なところをきっちりフォローして方向付けていて良いと思う。

ただまあこういう話だとドラッグがないとなんかむしろ不自然だなーとか思ってしまいはする。年代的にもそういう所と被ってるだろうしね。

シアタープノンペン

 

いい話にしようとしているのはわかるしそういう題材なのはわかるんだがしかし映画として面白いかというとそれはちょっと……というところはあるな。フィクションが挟まって現代に接続して人々が救われるという構造自体がそんなに悪いわけではないと思うんだが、しかしあまり映画になってない感じがするのはなんでだろうか。不思議な感じである。いやまあ話の筋としては確かに大体成立しているとは思うんだけれどもなー。娘の視点でクメール・ルージュの悲劇が追体験される、という構造も確かに納得で、うーむー……なにがこんなにピンとこない原因だったのかがよくわからん。最後にアレだけの人が集まって最終巻が上映されるのも確かに納得の構造のはずだしなー理屈から言うと。

あるいはクメール・ルージュの非道さみたいなのがちょっと紋切り型だったのかしらねえ。娘視点で語ろうとするときに、回想シーンが劇的になってしまうのは仕方ないとは思うんだけれども、あれもう少しリアリティのある描写でもよかったのかなあ。

あるいは映画の役割が、ちょっと上手く機能していなかったということなのかもしれない。恋愛結婚が成立するべきであるという物語の倫理を描くはずだった映画が、最終的にどういう意味づけの場所へと着地するのかが、混乱しているんじゃ? みたいには思う。それって「映画を破棄しろ」というクメール・ルージュとの関係性においてはどのような役割を担うの? みたいな。

ホワイト・ホット: アバクロンビー&フィッチの盛衰

www.netflix.com

いやー、おもしろいなー。アバクロとかオレ全く認知しないようなファッションに興味のない人間だったんだけれども、めちゃくちゃ楽しかった。

もちろん今の視点で見たら後半のポリコレ的な展開が重要なのはわかる。日本じゃ絶対肯定的に捕らえられないだろうなーという市民運動が成功していくのは、何か見ていて笑ってしまうくらいである。従業員のダイバーシティを確保しただけじゃダメってゴリゴリ問題提起してんのも、まあ当然なんだけれども強靱だよね。ただまあそこら辺って市民運動をエンパワーメントする映画で良くある展開ではあり、弱者が権利を主張してきちんとそれが社会に認められるのは、何度も見ている。

この映画で一番感心させられたのは、むしろ序盤のマーケティング・ブランディングの戦略で、なるほどこういったロジックでお金の循環を生み出していくのね、というのが目からウロコ。後半でたくさんの人々をターゲットにすることの優位性が説かれているけれども、前半で解かれていたブランディングによる差別化の戦略が決して劣っているようには思えないよなー。例えばエコに優しいというブランドイメージを与えることが差別化として機能したら、それは別に全然悪いことじゃないよねえ。

アイデンティティー

 

おおおお……ジェームズ・マンゴールド。「ナイト&デイ」で「もしかしてすごいんじゃ?」って初めて意識したんだけれども、なるほどこういう映画を撮っているのねー。いや、色々穴はあるけど嫌いじゃないよ。序盤の張り切り編集はちょっと張り切りすぎかなーと思うけど、でもまあそういう特殊なやり方をしなければならない必然性もあるし、終盤でこれまでの構成の意味がわかるところのやり口も良いし、うん、やっぱり嫌いにはなれないな……あとこういうドラマだと、序中盤の展開がどうでもよくなりがちだと思うし、実際どうでもいいはいいんだけれども、サイコを下敷きとしたモーテルの惨劇の予感でまあ引っ張っていて偉いなーと思いました。シャワーカーテンを雨合羽にするところとかいいよねー。

でまあ視聴者の興味としては、「この破綻した物語をどういう意味づけで着陸させるか」という所に絞られると思うんだけれども、そこである程度は納得のいく場所に着地していて本当に良かった。一番最後のクソどーでもいいどんでん返しも、「こういう状況だからこういうオチになってもおかしくはないよね」という落ちになっていて納得感はある。

もう少し各個人の象徴するバックグラウンドがそれぞれ殺人犯の物語に絡んでいればなあとは思うんだけれども、そのために長くするような話でもないからなあこれ……難しいところでありますね。

ファイヤーボール:宇宙からの来訪者

www.youtube.com

隕石で1本作るというアイディアは面白いし、それぞれの話も中々愉快だけれども、しかし全体としてちょっととりとめのない感じになっていて、うーんもう少し縦軸が欲しかったなあという気がする。いやまあこのクレーターが示すように、やはり宇宙から隕石が突然やってくるという状況は、ある種の物語を孕まざるをえない、みたいな所から話を進めるべきだったのかなー。なんか途中でペンローズとかが出てきたりしたしなあ。あとどでかい隕石で恐竜絶滅……みたいな話は確かに物語化できないスケールの大きさがあるからなー。

そうやって考えると、縦軸として要請されるのは、人間の物語よりももっと遥かに大きなスケールの視点で、そういう意味でこの映像編集がとったスタイルはあってるのかもしれないなー。ユカタン半島の巨大なクレーターは捉えることができないが、しかしその側にある貧しい村の様子を映し出すことで感じるギャップは確かに多少アルモンナー。

あと「ドント・ルック・アップ」で出てきた隕石を観察する組織が出てきて「あれリアルなロゴだったんだ!」と大変驚きました。