ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

美しい都市・醜い都市―現代景観論

 

美しい都市・醜い都市―現代景観論 (中公新書ラクレ)

美しい都市・醜い都市―現代景観論 (中公新書ラクレ)

 

書かれた時代が時代ってのはわかるし、そこで実際的にちょっと極端な立ち位置をとるのはわかるんだけど、あまりにも立ち位置が極端すぎてゲンナリ。首都高とオリンピックなんかの下りは現代だからこそ考えなければならないテーマだと思うんだけどなあ。個人的な美醜の感覚を批判しておきながら、首都高の美しさを称えてカウンター打つだけってのはどーよ? それって自ら水掛け論に加担してません? っていうかあの議論の流れで、なぜ日本橋の歴史的バックグラウンドの認識の問題に踏み込まないのかが謎。突然入ってくる押井守の都市論で、アールデコの摩天楼がどうこういったりするあたりはまあ悪くないんだけど、なんでそういう視座を首都高の議論に持ちこまんの? 

っていうか全体的に受けた印象なんだけど、日本の建築の背景に歴史的バックグラウンドの意味づけを行うことを拒否している感がある。都市計画って、そもそもこの都市はどのような歴史を持っていて、現状はここにいて、未来はどのような方向に進む、という長期的視点がなければ立てられないものじゃないんですかね? そのためには日本橋はどのような場所で、明治の文明開化がどれだけ重要で、オリンピックと高度経済成長がどんな役割を果たした、みたいな共通認識って絶対必要じゃないんですかね? っていうかこの本で専門家がガイドラインを敷いてあげるべきはそのような視座じゃないんですかね?

そりゃまあ国家とか為政者から歴史について共通認識を押しつけられるのが危険で恐い、って感覚はわかるんですけど、それにどう対抗していくかって、歴史そのものを拒絶することではないでしょう。っていうかむしろ、そういう過去を意味づけることの忌避感が、怪しい歴史観のつけいる隙を生み出しているように思うんですがどうですかね? この本にそういうのを読み取るのはやり過ぎ?