この本を読んで素人ながら色々考えさせられることがあったので纏めがてら書く。
読み始めたきっかけはもちろん最近読んでメチャクチャ面白かった『日本建築入門』。記事にも色々書いたけど、明治以降日本に新しく入ってきた『建築』という概念を、日本の建築界がどのように消化して相対的な『日本らしさ』を追求していったか、みたいなことが解説されている。オススメ。
丹下健三はそりゃあ巨人にふさわしくいくつもページも割いてあって、うおーやっぱりすごいんだなあと思いながらも、その後の建築の流れが正直よくわからんなあ、と思っていた。大阪万博で太陽の塔とお祭り広場の緊張関係、うん、涙が出るほど素晴らしい。
でもその後は? メタボリズム? よくわからん。
『非常識な建築業界 「どや建築」という病』には、そこら辺のことが実地の経験を含めながら大変わかりやすく書かれている。
というか、わかりやすすぎるのが曲者で、俺は読み始めてからはっきり反感しか持っていなかった。とにかく「どや建築」という単語が気に食わない。なんで気に食わないのかわからない。最初ザハの新国立競技場をクサしてるのが問題なのかなあと思っていた。自分はあの問題にそこそこ興味があってザハの計画が破棄されてしまったことを大変残念に思っていたからだ。
でも読み進めて反感の理由がわかった。問題はたぶん、もっと根本的な所にある。
先日こういう出来事がネットを賑わわせていた。
この記事が掬い上げているのは「メガネを床に置いただけでアートと区別がつかないなら、アートなんて意味ないよね?」という、アートに興味がない一般人の、アートに対する侮蔑のように考えている。
現代アートの文脈を知っている人から見れば、「そういう問題提起でアートの捉え方を破壊している時点で、それはアートになり得る」とかいう判断になるのかもしれない。俺は全然専門家じゃないけれども、カギかっこ付きの「芸術作品」が、メガネひとつでその枠組みを破壊されるなんて、メチャクチャ痛快なアートだと思う。メガネひとつを置いたところで世界観が変わる、そんな体験、他にどこでできるんだ?
このメガネが浮き立たせているのは、簡単に言えば専門家への不信じゃないだろうか。
「あーだこーだ作者の気持ちを解説しているけど、そんなの意味ないじゃん」という安易な侮蔑。自分が常識的に持っている認識の外に、何らかの新たな解釈がある可能性を認めようとせず、日常生活を送る一般人の感覚で全ての価値判断ができるという確信。
専門家の思考は往々にして一般人の想像を遥かに超えている。もちろん、視界が狭まりすぎて「ちょっとこれは……」という一般人の感覚を軽視してしまうことは良くある。けど、一見奇妙に見えるものも、専門の立場からすればそれがそうならざるを得なかった理由や確信があったりするものだ。
そこには大きな不理解の壁がある。お互いの不理解性が、床に置いたメガネで表現できるなんて、まあなんというか大変洒落ていますね。
- 作者: アメリアアレナス,川村記念美術館,Amelia Arenas,福のり子
- 出版社/メーカー: 淡交社
- 発売日: 1998/02/01
- メディア: 単行本
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で、その専門家の不信が激しく表に噴出したのが、例の東京オリンピックじゃないだろうか。俺は新国立競技場もエンブレムも、問題の根本にあるのは一般人との専門家の認識の乖離だと思っている。
専門家は専門家として、自分の仕事に自信を持って世の中に仕事の根拠を説明することができる。でも、残念なことに前提の知識を持たない人間に、説得力をもってその言葉を届けることは大変困難だ。
一般人はその根拠をひとつひとつ確かめたりはしない。重要なのは自分たちの持つ「一般常識」だ。専門家がどれだけワケのわからない寝言をほざいていても、それが今自分たちの持つ一般常識に合致しなければアウトだ。「非常識!」
『非常識な建築業界 「どや建築」という病』というこの本のタイトルは、そこら辺の一般人の実感を、大変扇情的に掬い上げていると思う。悪く言えば、一般人の感覚を安易に肯定してしまっているように思う。
「××は実は悪」って図式を描き、自分を真実に気付いた善のポジションに置くのはとても気持ちいい。
でもさー、それって別に問題解決に向かってなくて、むしろ悪化させることがおおいよね。
正直なところ、この本の読み始めと読み終えた時では全然印象が違う。
序盤は必要以上にセンセーショナルに煽って、「専門家がお題目を掲げてワケのわからん建築をドヤ顔で立てている」と問題を単純化し、「お題目は悪」「今の建築家は悪」と一般人にもわかりやすいように論を進めすぎているように感じられた。そもそも「どや建築」というレッテル張りは多分に悪意を含んでいて、その裏の動機やら掬い上げるべきものを軽視させてしまうと思う。
けど、後半に進むに従って、なぜ建築業界がそのような建築を多く排出するにいたったかが、豊富な実例を元に具体的に示されている。教育現場や経済的な問題などを抑えて示される現状分析はメチャクチャ説得力があって、おおなるほどそういう仕組みだったのか、と納得させられる。序盤は結構雑な言い方をしていたけど、後半になると別に全てのお題目が悪と言っているわけではなく、お題目に目がいきがちな余り、他の要素を軽視してしまう現状に警鐘を鳴らしているってのも強調される。
だから最終的な結論「頭でっかちで奇抜な建築はやめようぜ」「身の丈にあった建築にしようぜ」をこれだけ強い口調で言う気持ちも理解できる。わかりやすい感情に訴えかけるの超楽だもん。「なぜこの建築でならなければいけないのか」「あらゆる要素に必然性があるか」というような「全ての要素を真剣に検討する態度」を今の日本の非専門家に求めるのはあまり現実味がなく、そこら辺の前提をすっ飛ばして建築家と反対側の重しになってもらったほうが実践的には効果があるかもしれない。
でも、やっぱり問題なのは、一般人と専門家の間に不理解が生じたとき、「どや建築」とレッテル張りで切り捨てて、相手を悪と断じてしまう態度じゃないのか。むしろ建築家が「どや建築」と呼ばれるのを恐れて、安易に緑を増やして地味な見た目にして、という阿り方が危険だと俺は思う。
専門家は専門家としてきちんとお題目を立てて精査していかなきゃいけないし、それを元に一般の常識と真剣に折衝をする。その緊張関係の構築に必要なのは、相手の「お題目」を軽視したり、「どや建築」とレッテル張りをするのとは全く反対の態度じゃないか。
一般人が専門家を馬鹿にして良い、というような図式を安易に助長させてしまう書き方は、自分、やっぱり同意できません。