ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

チャッピー


この映画は根本から大きな勘違いをしていて、まあ端的に言ってあの目覚めのシーンがクソ。
なぜ初めて目覚めたAIが他者に対して怯えねばならないのか。人間と全く異なった価値観を持つ存在を描くなら根本から恐怖という感情を共有できないところを描くべきだし、赤ん坊としての知性を描くなら人間的知性は他者への一方的な依存から描かれねばならないだろう。ところがこの映画のチャッピーは目覚めから「怯え」という行動を取る。おまえサルか。じゃなきゃあれは未開人だ。あのファーストコンタクトの描き方は、「恐怖という人間的な感情を持つ」 ことを前提としつつ、言語の障壁がそれを阻んでいる描き方になっており、人類が初めて出会う他者としての知能の描き方としては完璧に間違っている。そもそも何であの後もう一度言語を交換するシークエンスが描かれるのか。適当すぎるだろ。
この映画にとって最も重要なキーワードのひとつである「死」についての扱いもぞんざいだ。というかマジであり得ない。なんで路傍の犬というどうでも良いところから死についての理解が生まれなければならないのか。例えば置き去りにされた時自宅に帰る途中に犬と仲良くなるんだけどそこにライバル科学者登場で犬をブチ殺してチャッピーを誘拐、でもチャッピーは犬の死を理解できない、みたいなエピソード挟むとか全然できるだろ。犬を雑に扱うな。犬を。
とにかくこの映画、演出意図というか、イメージボード的な映画的瞬間を映像化する意識が圧倒的に足りていない。俺がこの映画で見たかったのは、ロボットへの憎しみで理性を完璧に失ったマッドサイエンティストヨハネスブルグに起こす警察ロボットの大反乱であり、円形のスラムマンションの中心から全階をマシンガンで穴だらけにしつつ悠然と顕現するライバルロボであり、アジトの激しい銃撃戦で穴だらけになって崩れ落ちるチャッピーとママが描いた数え切れないほどのラクガキだ。
そしてそれを導き出すためには、作品の中心であるチャッピーとAIに対する考察が圧倒的に足りない。いくら衝撃的シーンを繋げて大音量で意識を引っ張って少したりとも飽きさせない2時間を作り出したところで、俺はこの映画がクソだと心底断言できる。