ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

イングロリアス・バスターズ

タランティーノの新作は変な映画であった。


いくつかのストーリーが並行して走る群像劇的な外見をしているものの、とにかくその構成が変である。

普通に考えればストーリー上一番感情移入を誘うのは、幼い頃にナチに家族を殺され、自らの映画館を利用することによりその復讐を果たそうとするメラニー・ロランに決まっており、正直彼女だけのストーリーで映画は作れる。というか単純にあの神がかったクライマックスシーンを描きたいだけならば、たぶん単線にした方がエンターテインメントになる。

対して表題であり映画の顔となるブラッド・ピット率いるバスターズは全く感情移入するような描き方をされていない。複線回収なども意図的にずらされており、たとえば前半であれだけ立てられたキャラクターたちが全く活躍していない。

それじゃあ群像劇として、複線が相互に作用しあって映画的にすさまじい効果を発揮しているかと聞かれれば、いやはや全くそんなことはないあんまりそういう感じはしない*1。やはり先ほど言ったようにこの映画は復讐劇としての部分だけを取り出してもそれだけで成立してしまうし、バスターズのストーリーは直接そこに介入しない。

終始感情移入を阻み「ストーリー的にどうでもいいんじゃない?」と思われるバスターズが、ブラッド・ピットが、映画の最後を締めくくるのは明らかに監督の趣向なんだろう。


でもその趣向って何だ?
ってのが全然つかめず、映画を見終えてからしばらく呆然としていた。
この映画、いったい何だったんだ?

「たとえばバスターズがいなかったら?」なんて問いを設定してみると、監督の意図が見えてくるのかもしれない。

ナチス」という題材を扱った途端、その映画は途端に社会的な態度を示すように求められる。「戦争は悲劇だ」とか、「個人を狂気に陥れる非人道的なものだ」とか。たぶん、復讐譚で終わっていたら、この映画もそういうわかりやすい教訓を示すことになっていただろう。

「いやいやそんな教訓は説教くさくていやだ! 全てを徹底的に茶化して戦争に社会的な意見を発しない、というポーズを示そう」と考えたって、それ自体が一種戦争に対しての態度になってしまう。

で、もしかしたらバスターズの突き抜けた感情移入否定の態度、徹底的なエンターテインメントを外した展開は、もしかしたら、戦争映画でありながらもそこからの教訓を無化する役割を負っていたのではないか?

ストーリーを混乱させ、戦争映画の意味を破壊し、敵を騙し、最後の最後ただ悠然とそこに存在するブラッド・ピットは、もしかしたら観客である自分さえも裏切って、映画から「教訓」を奪っているのではないか?

なんて、そんなことを考えました。


いや、なんかそういうと頭でっかちつまんなそうだけど、それでもやっぱりめちゃくちゃ面白いんだよなあ。
映画って、脚本でも思想でもなく、その全てが合わさったフィルムそれ自体が面白いんだなあ、ということを、さんざん思い知らされた映画でありました。

*1: 2010年1月6日訂正:ちゃんとバスターズの行動があの結末を導いていますね。いやでもそれってストーリーの中心ではなく、むしろ副産物のような印象を与えるように描かれているように感じました