ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

じんじゃえ-る!

じんじゃえーる! (HJ文庫)

じんじゃえーる! (HJ文庫)

幼なじみに告白できない主人公の元に願いを叶える神様がやってきた! となったら普通は大体そのストーリーの大枠が決まる。


「魔法」や「奇跡」や「御利益」といった超常的な力は、主人公の願望を直接叶えてはならない、という物語の側からの要請がある。
主人公が目標を達成するのは「努力」の結果であることが望ましく、その目標が物語の装置において最も神聖な「恋愛」であるならばなおさらである。

しかし神様の存在意義はまさにその「奇跡」を起こすところにあるわけであり、神様が物語を構成する最重要要素である以上、「奇跡」が起こらないわけにはいかない。
っつーか神様がやってくることで物語が日常から非日常にシフトするんだから、「奇跡」は全体を駆動させるエンジンの役割を担うのが当然だろう。

で、両者の板挟みから物語の骨格が生み出される。
「神様は奇跡を行使するが、恋愛は成就せず、むしろ問題が複雑になる」トラブルメーカー型がオーソドックスだろうけど、「神様が行使しようとする奇跡を主人公が拒否する」なんてのもアリだろうし、「恋愛は一度成就するが、そこから二人の間柄に疑念が差し込まれる」なんてのも、まあ、あり得ないことはないだろう。
そこら辺を組み合わせれば、とりあえずそれっぽい骨格は出来上がる気がする。

ただしここで面倒くさいのが、「神様の起こす奇跡が無意味でないことが望ましい」という点である。
主人公が目標を達成するのは、彼が努力した結果であるのはもちろんなんだけれども、それだけじゃ神様の存在意義がないわけで。神様は「主人公が自分の努力だけではどうにもならない運命的な障害を除く」とか、そういう役割を担う方が収まりがいいのだ。

とまあ、「幼なじみに告白できない主人公の元に願いを叶える神様がやってきた!」という前提から物語の力学が働いてずずずずいっとこのくらいの構造ができると思うんだが、さて果たしてこの小説に当てはめるとどうだろうか?


自分が思うに、『じんじゃえ-る!』においては神様の行使する奇跡の能力があまりにも軽んじられている。
無力な新米という立場を演出するためにある程度は必要だったのかもしれないが、しかし子供にはどうにもならない「親の都合」を神様が自らの力で除くことができなかったのは、やはり神様の立場を軽んじさせる原因のひとつになっているように思う。そもそも問題を解決するためのトレードオフが、読者にとって身を切るように感じられないのも辛い。
なんというか「主人公と幼なじみはほっといてもくっつくんじゃね? 神様邪魔じゃね?」という印象が強すぎるのだ。

たとえば「親の都合」をもっと前の時点で読者に明かし、解決すべき障害としての重み付けをさらに強くすれば、また印象は違っただろう。
神様だけにその事情を知らせておいて、「奇跡によって存在が消えるかもしれない」という外的な障害とはまた別に、「この障害を除けば二人は結ばれるんだけれども、自分はそうしたくない」という内的なドラマをさらに深く掘り下げてやれば、神様の決断は物語上できちんと重み付けされたのではないかと感じた。