ガチラノ

死ぬほどどうでも良いわ…

ギャルゲヱの世界よ、ようこそ!

 

ギャルゲヱの世界よ、ようこそ! (ファミ通文庫)

ギャルゲヱの世界よ、ようこそ! (ファミ通文庫)

 

 

なんかものすげー既視感のある問題を持ってくるなあ、と思ったら作者がギャルゲ好きの30代。あー例のアレか。

「主人公が交流することによって不幸が改善されるヒロインが、主人公と出会わなかった場合はどうなるか」「ゲーム的リアリズムを持つ虚構のキャラクターが現実世界に混じった場合どうなるか」というふたつのテーマがごっちゃになってて、かなりわかりづらいプロットになっている印象。
最初に提示される問題は前者なんだけれども、「バグ」のあたりから後者にテーマがシフトする。

まずは後者「ゲーム的リアリズムを持つ虚構のキャラクターが現実世界に混じった場合どうなるか」。ゲームのヒロインがクラスにいたらまあぶっちゃけいじめに遭うよねという話。ゲームのような勧善懲悪の世界ではなく、不条理な障害が次々に襲う現実の中、彼女たちは問題に対処し、妥協し、生きていかなければならない。そこに、勝手に虚構のキャラクターを現実世界に呼び戻した主人公の責任感と苦悩が重なる、という構造。
舞台が現実世界である以上、本来主人公はいじめに遭ってるヒロインの極端な行動を修正し、彼女たちと現実世界の不条理に折り合いをつけてやるのが筋。ただそれには「ヒロインのキャラクターとしての特性を殺さず」なおかつ「いじめという現実的な問題に対処する」というエロゲにハマるオタクちゃんには到底決められっこないウルトラCが必要だ。っていうかどうすりゃそんなアンビバレントに説得力持たせられんのよ?
で、そんなウルトラCが不可能だと悟ったのか何なのか、この作品ではヒロインと対立していた「現実世界の不条理なリアリズム」を「ゲーム的リアリズム」におとしめることで、この問題を解消している。どんな陰惨ないじめが起きようと、それは主人公が「一念発起!」すれば不良は改心みんなも感謝、全てが丸く収まるという到底現実味のない解決法である。イヤッホー!
まあしかし、この作品は当初から「虚構」と「現実」が区別されたベタなメタ構造をとっていて、最初から「現実」にいた主人公が「虚構」であるギャルゲーを「設定の不備がある」だの「ご都合主義」だの批判していたわけで。そんなところに、現実にいたはずの主人公が虚構よろしくご都合主義なストーリーを展開し始めるとなると、主人公のギャルゲーへの批判がそのままこの小説・作者にそのまま返ってくる! まあなんて自己批判! メタ小説! 物語には何の寄与もしていないけれど!

で、ようやく前者の問題「主人公が交流することによって不幸が改善されるヒロインが、主人公と出会わなかった場合はどうなるか」なんだけど、これは一度この作品世界がある種のゲーム的リアリズムにのっとっていると認めた以上、「ハーレムギャルゲ」のフォーマットを導入することで簡単に解決できてしまうのだった。
もしも世界が「現実側」に残った場合、「ハーレムは倫理的に不可能である」という常識的な判断と「ヒロイン全員を幸せにしたい」という願望の間で葛藤が起こるんだけど、この世界がゲーム的なリアリズムに支配されている以上、常識的な判断なんて重きを置く価値がない! 主人公が「みんなが大好きだー!」と叫べばクラスメイトも街のみんなも「君のがんばりは知ってるよ!」「おめでとう!」「おめでとう!」と拍手してくれるのである。やれやれ。

メタ構造をとって虚構を見下ろしている以上、現実の問題は「主人公ががんばったくらいじゃ覆せない困難」であるべき。「困難」に十分な説得力を持たせないとただのご都合主義に終わる、ってのはどんな話でも当然なんだけど、でもこの作品はメタを根幹に置いた作品であるが故に、その失敗が倍返しになってやってきました! という感じ。